第72話 理事会の建議ですので
規約の写しは、二日で届いた。
式典局を通して取り寄せた。私の名で頼むと時間がかかる。局長の名で頼むと、その日のうちに動く。こういうところは、まだ組合の中に残っている。
厚い紙束だった。去年、私が読んだものより、少し厚い。第二条を開いた。
『直しを職とす。位を置き、値を定め、徒弟を取る』
この春の初め、総会の壇上で書き加えられた一行だ。私はそれを広間の後ろから見ていた。ヴァレンタン殿が退かれたのも、同じ日だった。
その下に、但し書きが四つ並んでいた。
総会で通ったときは、三つしかなかった。
増えていたのは、四つ目だった。
『直しの位を有する者、新調を業として請くべからず』
欄外に、小さく日付がある。この春。組合の年の改めのときだ。
私はその日付を、指で押さえた。押さえたまま、しばらく動かなかった。この春、私は何をしていただろう。
婚姻の届けを出して、幕を上げて、敷物を裏返して、銀鼠の脇を出していた。
*
ポレットは、その朝、裁っていた。
昨日、請けられないと分かったばかりの子が、今日も端切れを台に広げて、型を置いて、鋏を入れている。私は何も言わずに、しばらく見ていた。
この子の裁ちは、去年よりずいぶん良くなった。鋏の刃を布から離さずに、一息で送る。途中で止めない。止めるところを決めてから入れる。
ただ、型の置き方がまだ雑だ。布目に対して、型がわずかに傾いている。
「ポレット」
「はい」
「型が、二分傾いています」
「え」
「裁つ前に、耳と型の縁を合わせなさい。傾いたまま裁つと、縫ってから捩れます」
ポレットは鋏を置いて、型を置き直した。耳に定規を当てて、型の縁が平行になるまで二度直した。
布目というのは、目に見えるようで見えない。織り目を数えれば分かるが、数えている暇はない。だから耳で見る。耳は布の端で、織るときに糸が折り返したところだから、必ずまっすぐに通っている。
耳が読めるようになると、裁ちが変わる。去年のこの子は、型の絵ばかり見ていた。置き直してから、こちらを見た。
「頭。あたし、裁っててもいいんですか」
「稽古です」
「稽古なら、いいんですか」
「業として請けてはならない、と書いてあります。稽古は、業ではありません」
ポレットは、少し考えてから、また鋏を持った。
刃を入れる前に、一度、布の上を手のひらで撫でた。裁つ前に撫でるのは、皺と、下に噛み込んだ屑を払うためだ。屑が一つ挟まっていれば、そこだけ刃が浮く。
この所作は、誰にも教えていない。私がやるのを見ていたのだろう。
*
組合会館へは、その日の午後に行った。
玄関の広間は、前と同じだった。壁一面の棚に、徒弟名簿の巻が年ごとに並んでいる。いちばん左の巻の、最初の頁の三行目に、家名のない四文字がある。
私は、その棚の前を通るとき、いつも歩くのが少し遅くなる。二階の応接の間に通された。窓が高い、検分のための部屋だ。
*
セラファン殿は、四半刻ほどしてから来られた。
灰色の上着は同じだった。腰の折り方も同じだった。違うのは、肩に掛かった組合長の飾り紐だけだ。
「お直し係様。……失礼、宮廷修繕方、頭殿でございました」
「どちらでも構いません」
「いえ、位のことでございますので」
その言い方で、話の半分は終わっていた。
「第二条の四つ目の但し書きについて、伺いに参りました」
「はい」
「この春に加わったものと伺いました。理由をお聞かせいただけますか」
セラファン殿は、卓の上で手を組んだ。
「理事会の建議でございます」
「どなたの建議でしょうか」
「建議は、理事会として出るものでございます。個々の名は、議事の綴りにございますが」
「拝見できますか」
「閲覧には、理事の同席が要ります」
「では、同席をお願いできますか」
「私は、組合長でございますので」
セラファン殿は、わずかに首を傾けた。
「理事ではございません」
私は、その論の立て方を、しばらく味わった。組合長は理事会の上にいる。上にいるから、理事の同席役にはなれない。間違ってはいない。
「では、どなたにお願いすれば」
「理事のどなたかに。……名簿は、玄関の広間にございます」
*
「組合長として、この但し書きをどうお考えですか」
私は訊いた。セラファン殿は、少しだけ間を置いた。
「理事会の建議ですので、私の一存では」
去年、この方は同じ部屋で、同じ姿勢で、こう仰った。私の一存では。——組合長にお伝えします。
伝える先が、なくなっただけだった。
「……失礼を承知で申し上げます」
「どうぞ」
「その言い方は、去年と同じです」
セラファン殿は、初めて少しだけ笑った。悪意のない笑い方だった。
「さようでございますな」
それだけだった。
*
「一つだけ、お教えいただけますか」
退がる前に、私は訊いた。
「この但し書きで、困る者が何人おりますか」
「と、申されますと」
「直しの位を持っていて、新調を請けたい者です。組合の中に、何人おられますか」
セラファン殿は、天井のほうを見て、勘定した。
「……二十人ほどかと」
「二十人」
「城下の直し職で、位が付いたのが五十八人。そのうち、仕立ても手がける者が、二十人ほど」
「その二十人は、これで仕立てができなくなりました」
「さようで」
「その方々から、苦情は」
「一件も」
会館を出て、織物町の通りを歩いた。一件も、と言われたのが、頭に残っていた。
二十人が仕事を一つ失って、誰も苦情を言わない。言わないのは、諦めたからか、それとも——困っていないからか。
困っていないのだとすれば、その但し書きは、困らない誰かのために書かれたことになる。
私は、その「誰か」の形が、まだ見えなかった。
*
宮へ戻ると、机の上に儀典方からの書き付けが載っていた。封を切る前に、厚みで分かった。薄い。一枚だ。
御婚礼の御衣装の下命が、組合へ下りた。
宮廷修繕方の名は、どこにも書いていなかった。
私は書き付けを帳面に挟んで、それから銀鼠の白布を外した。
脇は出してある。裾は裁ち替えてある。丈は三寸出て、折り返しは一寸残してある。あとは上に重ねる一枚だけで、この一着は終わる。
終わるのに、その一枚の地が決まらない。決まらないまま、ひと月が過ぎていた。
私は白布を掛け直した。糸切り鋏で書き付けの端を切り揃えようとして、やめた。切り揃えたところで、書いてあることは変わらない。
鋏を針箱に戻す音が、一つ鳴った。
お読みいただきありがとうございます。
二十人が仕事を一つ失って、誰も苦情を言わない。言わないのは、諦めたからでしょうか。
次話——御衣装の下命が、組合へ下りました。
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