第71話 請けられません
アネットが洗い張りをしている、その横で私は話を切り出した。
この子は手を止めない。盥の縁で布を絞って、板に張って、皺を指で伸ばす。伸ばすときは、掌の付け根を使う。指先で押すと筋が残る。誰に教わったのかと以前訊いたら、「見ておりました」とだけ答えた。
洗い張りは、一着を一度ばらばらにする仕事だ。縫い目を全部ほどいて、布を元の一枚に戻して、洗って、張って乾かして、また縫う。仕立て直すよりも手間がかかる。
ほどくときは、裁ち目のほうから解く。縫い始めから解くと、糸が途中で切れて、切れた先を探すのに時間を取られる。アネットはいつも裁ち目から入る。
張り板に載せるときは、布の耳を先に合わせる。耳が揃えば、布目はおのずと通る。耳を見ずに真ん中から伸ばすと、乾いたときに全体が斜めに歪む。
歪んだ布は、縫っても落ち着かない。着ると片側へ引かれて、そのうち、そこが裂ける。
この子は、それを一度も間違えない。
「ポレット」
「はい」
「王女殿下の御婚礼の御衣装を、仕立ててみませんか」
張り板の水音が、一つだけ止まった。アネットの手ではなかった。ポレットのほうが、糸巻きを落としていた。
*
「……あたし、ですか」
「はい」
「あの、仕立てって、新しく縫うほうの」
「そうです」
ポレットは、落とした糸巻きを拾って、それをずっと握っていた。顔が赤くなって、それから青くなった。十四のときからこの子を見ているが、この順番は初めてだった。
「無理です」
「無理かどうかは、やってから決めなさい」
「そうじゃなくて」
ポレットは、糸巻きを台に置いた。
「あたし、縫えます。たぶん、縫えます。裁つのだって、この半年、毎日やってます。……そうじゃなくて」
顔を上げた。
「あたし、請けられないんです」
*
私は、その一言の意味が、しばらく分からなかった。
「請けられない、とは」
「あの、去年の夏に、宮の徒弟になったじゃないですか。あたし」
「はい」
「それで、この春に、組合の徒弟証と相互登録になって」
「はい」
「だから、あたし、直しの位に属してるんです」
ポレットは、言いながら、自分の言葉を確かめているようだった。
「組合の規約で、位のある者は、その位の仕事をするんです。直しの位の者は、直しをします。……新調は、別の位です」
「別の位の仕事を請けてはいけない、と」
「そう、聞きました」
部屋が静かになった。
いや、静かではなかった。アネットの張り板の水音は続いていた。コリンヌが帳面をめくる音もしていた。
音がしているのに、静かに感じた。
「誰から聞きましたか」
「組合です。登録のとき、書付をもらって、読み上げてもらいました」
「書付は、ありますか」
「あります」
ポレットは棚から自分の箱を出した。この子の箱には、字を習い始めてからの物が全部入っている。書き損じの紙、名簿の写し、宮の徒弟の札。
書付は、その一番下にあった。
*
私は書付を灯りの下で読んだ。
組合の徒弟登録の控えで、ポレットの名と、相互登録の日付と、それから条の写しが三つ並んでいた。
三つ目に、それがあった。
『直しの位を有する者、新調を業として請くべからず』
私は、その一行を二度読んだ。
「頭」
「はい」
「あたし、これ、読み上げてもらったとき、そんなに気にしなかったんです」
「はい」
「だって、あたし、直しの部の徒弟ですから。新調はしませんし」
ポレットは、そこで少し笑おうとした。
「困ると思わなかったんです」
*
私も、困ると思わなかった。
この春、相互登録が通ったとき、私はそれを勝ちだと思った。宮の徒弟が、城の外でも通るようになった。ポレットの位が、宮の中だけのものではなくなった。
そう思って、条の中身を読まなかった。
いや、読んだ。読んで、頭に入れなかった。自分に関わるところだけを読んで、関わらないところは目で通り過ぎた。
規約は、書かれた日から効いている。効かせるかどうかを決めるのは、人だ。
去年、私は城下の婆さんの話を聞いて、そう思った。同じことが、こちらへ来ただけだった。
*
「頭。あたし、やりたいです」
ポレットが言った。
「その御衣装、やりたいです。縫い代一寸のやつ。あれ、頭が考えたんですよね」
「はい」
「あたし、あれ、いいと思いました。あとで誰かが直せるように作るって、ちょっと、その」
言葉を探していた。
「……うれしいです」
「はい」
「あたしが縫ったのを、あたしじゃない人が直すんですよね。会ったこともない人が。それって、なんか」
ポレットは、自分の指先を見た。
「壁と、同じですよね。あの、羽目板の」
私は答えなかった。
答えられなかったのではない。答えると、この子に約束をすることになる。約束できるかどうか、まだ分からなかった。
「明日、規約の写しを取り寄せます」
「はい」
「但し書きがいつ書かれたものか、確かめます。春に読み上げてもらったときに、この条があったのなら、私が見落としました」
「頭が悪いんじゃないですよ」
「私の見落としです」
私は書付をポレットに返した。
「箱に戻しておきなさい。……大事なものです」
「はい」
*
アネットが、洗い張りを上げた。
板に張った布が、夏の風で少しずつ乾いていく。この子は板を陽の当たる側へ回して、それから道具を片付けた。
帰り際に、一度だけ振り返って言った。
「頭」
「はい」
「わたし、位はありません」
アネットは針子だ。修繕方になったときの沙汰で、正式な位が付いている。位はある。言いたいことは、たぶん違った。
「洗い張りは、直しにも、新調にも要ります。どちらの位にも、入っておりません」
それだけ言って、階段を下りていった。
私はしばらく、乾きかけた布を見ていた。板の上で、布は、どちらの位にも属さない顔で張られていた。
私は張り板の端を持って、日の残っている側へもう一度回した。布に触れると、まだ湿りが指に残った。明日の朝には乾く。乾いたら、この布はまた一着に縫い戻される。
ほどいて、洗って、張って、縫う。この順に名前を付けるなら、どこまでが直しで、どこからが仕立てなのだろう。
縫い戻すのは、新しく縫うことではない。だが、針は一から入れ直す。
針箱の蓋を閉める音がした。どちらの位にも属さない布は、まだ板の上で乾いていた。
お読みいただきありがとうございます。
規約は書かれた日から効いています。効かせるかどうかを決めるのは、人です——去年、城下で学んだことが、今度はこちらへ来ました。
次話——但し書きが、いつ書かれたものかを確かめます。
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