第70話 直せるように、仕立てる
グレイルの屋敷は、王都から馬車で二刻の、なだらかな丘の上にあった。
門はあったが、門番はいなかった。石の柱が二本と、鉄の扉が片方だけ。もう片方は蝶番のところで外れて、脇に立てかけてある。
「直さないのですか」
「直すと、閉められるようになる」
局長が先に立って歩きながら言った。
「閉めると、村の者が回り道をする。半町の回り道だが、毎日となると馬鹿にならん」
私は外れた扉を見た。錆は浮いているが、蝶番の座は綺麗に磨いてあった。外したのではなく、外して手入れをして、そのまま立てかけてある。
捨ててはいないのだ。
屋敷は、思っていたより小さかった。
二階建てで、部屋数は十を超えない。壁の漆喰は塗り直したばかりらしく、そこだけ白い。屋根は、瓦の色が三種類に分かれていた。傷んだところから順に替えていったのだろう。
「古いと申されましたが」
「古いだろう」
「継いである、と申し上げるほうが近うございます」
局長が少し笑った。
*
中へ入って、私はしばらく動けなかった。
玄関の広間に、椅子が四脚あった。同じ形の四脚だ。座面の張り地が、四脚とも違っていた。
一脚は元の織のまま。一脚は色の近い別の織で張り替えてある。一脚は座面の中央だけ当てが入っていて、周りは元の織。最後の一脚は、張り地の下からさらに古い張り地が覗いていた。二度張り替えて、二度とも上から重ねている。
私は膝をついて、三脚目の当ての縫い目を見た。素人の手だった。運びが揃っていない。だが、角は丸く落としてある。
「これは」
「母だ」
局長が言った。
「針は不得手だった。だが、やらねばならんときは、やった」
窓掛けは、もっとひどかった。
いや、ひどいという言い方は正しくない。丈が足りなくなるたびに、上から別の布を継いである。三段になっていた。いちばん上が古く、下へいくほど新しい。
三代ぶんだ。継ぎ目は隠していない。隠そうとした跡もない。縫い目は太く、糸の色も揃っていない。
それでも、窓掛けとして機能していた。光を遮って、風を止めて、そこに掛かっていた。
「これを、恥だと思ったことは」
「ある」
局長は、窓掛けを見上げたまま言った。
「十四のときだ。友人が来て、笑った。……笑ったのではない。気を遣って、見なかったふりをした。そのほうが応えた」
「はい」
「そのあと、母に、これを替えようと言った」
「替えられましたか」
「替えん、と言われた」
局長は、窓掛けの継ぎ目に指を掛けた。
「上の段は、祖母が継いだ。真ん中は、母が継いだ。替えたら、二人の分がなくなる。……そう言われて、私は黙った」
*
庭に出て、丘の下を見た。
小さい領だった。畑が四つか五つ、村が一つ。遠くに水車が見える。派手なものは何一つなかった。
この人が、宮で予算を一枚ずつ削っている理由を、私は知っているつもりでいた。父の代に商会の浪費構造に呑まれて家が傾いた。だから捨てることを憎む。そう聞いた。
聞くのと、見るのは違った。
この家は、傾いたあとで捨てなかったのだ。売れるものを売って、残りを全部、直して使った。四脚の椅子も、三段の窓掛けも、外した門の扉も、全部その結果だった。
直すというのは、貧しさの印ではない。
貧しくなったあとも、その家が続いているという印だ。
*
帰りの馬車の中で、私はずっと窓掛けのことを考えていた。三段の窓掛けは、なぜ三段にできたのか。
いちばん上の布に、継ぎ足せる余地があったからだ。丈が足りなくなったとき、上の布に糸を通せる縫い代が残っていた。残っていなければ、全部を捨てて新しく掛けるしかなかった。
最初に掛けた人は、次に困る人のことを、たぶん考えていない。ただ、布を切り詰めなかっただけだ。
それだけで、三代もった。
「局長」
「なんだ」
「新しく仕立てても、構わないのではないでしょうか」
局長がこちらを見た。
「婚礼令は、新調に限ると書いてございます。直しの手を入れたものは、用いてはならないと」
「そうだな」
「では、新しく仕立てます。ただし——あとで直せるように、仕立てます」
私は、膝の上で指を三本立てた。
「一つ。縫い代を広く残します。五分ではなく、一寸。着る人が変わっても、出せるように」
「二つ」
「裏襟に、印を入れます。仕立てた年と、縫い手の名。……直したときにも書き足せるように、札を大きめに取ります」
「三つ」
「寸法帳を添えます。どこをどれだけ取ったか、全部書いて、衣装と一緒に渡します。次に手を入れる者が、迷わずに済むように」
馬車が揺れた。局長はしばらく黙っていた。
「それは、新調か」
「新調です。針を入れるのは、今日の布だけです」
「婚礼令には触れんな」
「触れません」
局長は、窓の外を見た。
「……そなたは、直しを禁じられて、直される側を作ったわけだ」
私は、その言い方を、少し胸の中で繰り返した。
*
宮へ戻って、私はその晩、見本を一枚縫った。
端切れの籠から白い綿を二枚取って、脇を一本縫っただけのものだ。ただし、縫い代を一寸取った。縫ってから、片側を出してみた。一寸のうち七分まで出た。出したあとも、五分残った。
次に、同じものをもう一枚縫って、縫い代を五分で取った。出してみると、二分しか出ない。出したところが、すぐ端に来る。
二枚を並べて、台の上に置いた。見れば分かる。説明が要らない。
*
三日後、私は儀典方へ行った。
見本二枚と、寸法帳の書式の案を持っていった。ベルナール殿は書見台から顔を上げて、二枚の布を順に見た。
「これは、新調でございますな」
「新調です」
「では、九条には触れません」
「はい」
ベルナール殿は、二枚をもう一度見た。それから、後ろの棚のほうへ立ち上がった。この人が書見台の前を離れるのを、私は初めて見た。
棚から、古い綴じ本を一冊出してきた。婚礼令の正本ではない。もっと薄い、綴じの粗い本だった。
「儀典方の控えでございます。婚礼令のもとになった、古い式次第の写しで」
「なぜ、それを」
「先日、頭殿に問われまして」
ベルナール殿は、台の上に本を置いた。
「なぜ二行なのか、と。私は分かりませんと申し上げました。……分からないままにしておくのは、儀典方の役ではございません」
「お調べになったのですか」
「調べております。書いてあることの由来を調べるのは、儀典方の仕事でございますので」
*
私は宮廷修繕方の部屋へ戻って、帳面に段取りを書いた。
王女殿下の御婚礼の御衣装。新調。縫い代一寸。裏襟に札。寸法帳を添える。銀鼠は用いない。ただし——上着の地は、銀鼠と同じ色調を探す。
書き終えて、最後の一行で手が止まった。
仕立て。
誰が。
宮の御用の新調は、王都仕立て組合の登録工房に限る。修繕方は直しの部だ。新調は請けられない。
翌日から三日かけて、私は登録工房を三軒当たった。
一軒目は、縫い代一寸と聞いて首を振った。「そんな仕立ては、うちの型にございません」
二軒目は、裏襟の札を嫌がった。「直した者の名を入れる前提の仕立ては、初めから傷むと言うようなものです」
三軒目は、最後まで聞いてから、こう言った。
「お引き受けしたいのですが。……その仕立ては、組合の値表にございません」
お読みいただきありがとうございます。
最初に掛けた人は、次に困る人のことを、たぶん考えていません。ただ、布を切り詰めなかっただけです。
次話——その仕立てを請ける針子が、どこにもおりません。




