第69話 婚礼の裁ち方
城下から戻ったあと、私は夕方までかかって、預かっていた分を片付けた。
王女殿下の上着の地をどうするかは、まだ決めていない。決めていないので、その一件は手を付けずに置いた。手を付けられない一件を抱えているときは、手を付けられる一件から片付ける。それも祖母の教えだ。
コリンヌが敷物の裏返しを二枚、アネットが洗い張りを三点、その日のうちに上げた。ポレットは帳面付けをして、途中で二度、字を間違えて書き直した。
「頭、今日の城下のこと、書いていいですか」
「帳面は、預かった品と返した品を書くものです」
「じゃあ、駄目ですね」
「覚えておきなさい。書かなくても、覚えていられます」
*
その夜、私は畳紙を下ろした。
夕餉を済ませて、針子たちが引き上げたあとだった。燭台を二つに増やした。一つでは足りない。裁ち端を見るには、影ができない置き方がいる。
台の上に、全部を並べた。
前身が二枚。後ろ身が一枚。袖が二枚。衿。それから、細長い裁ち屑のような一枚。この一枚は、最初に見たときは余りだと思って、脇へ寄せていた。
今夜は、それも並べた。
最初に、打ち合わせを見た。
前身の左右を重ねてみる。重なる幅が、深い。四寸ある。日常の着物なら二寸あれば足りる。四寸重ねるのは、動いても開かないようにするためだ。
動いても開かない必要がある場面。長く立つ。人の前を歩く。頭を下げる。上げる。次に、裾。
裾は裁ち落としていない。余りが六寸取ってある。丈は、着る人が決まってから詰める。仮に長くしておいて、あとで合わせる裁ち方だ。
それから、縫い代。
前も後ろも袖も、縫い代が一寸近い。普通は五分だ。倍取ってある。
私は、そこで一度、手を止めた。
縫い代を広く取るのは、あとで出すためだ。
出すのは、着る人の身体が変わったときだ。太る。痩せる。年を取る。あるいは——着る人が、別の人に変わったとき。
この布は、一度きりの日のために裁たれていない。
その日のあとも、長く残るものとして裁たれている。
*
最後に、細長い一枚を手に取った。
裁ち屑ではなかった。長さが二尺、幅が三寸。両端がきちんと直角に裁ってある。裁ち屑は直角にならない。
これは、共裂だ。
同じ反物から取って、直しのときのために別に残しておく一枚。伝来の御衣装には必ず添える。私は去年、先王妃様の大礼服の共裂を、桐の小箱から受け取っている。
共裂がなぜ要るかというと、同じ反物は二度と手に入らないからだ。織り手が同じでも、年が違えば糸が違う。染めが同じでも、釜が違えば色が違う。焼けた一着を継ぐとき、最後に物を言うのは技ではなく、同じ反物が残っているかどうかだった。
だから、仕立てる者は先に取っておく。使うかどうか分からない一枚を、着る人が一度も見ない一枚を、最初に裁って別にしておく。
祖母は、まだ縫ってもいない一着に、共裂を取っていた。
縫う前から、この一着がいつか傷むことを勘定に入れていたということだ。
*
私は椅子に座り直して、並べた布をもう一度、端から見た。深い打ち合わせ。裾の余り。倍の縫い代。共裂。
この四つが揃うのは、一つの種類の衣装だけだ。
「……婚礼衣装」
声に出してから、私は自分の声に少し驚いた。部屋には誰もいない。祖母は、誰かの婚礼のために、これを裁った。
分かったのは、そこまでだった。
誰の、が分からない。
寸法は取ってある。背が低く、肩幅が広い人。それだけでは、誰にも行き着かない。
私は祖母の技法ノートを出して、頁を繰った。この冬、門下の名の一覧を見つけた頁の、その先も全部。図と針目の見本が続いて、最後の数枚は白紙だった。
白紙の頁を、私は光にかざしてみた。何も書いていない。書いて消した跡もない。ノートは、何も教えてくれなかった。
*
私は、袖の裁ち端に戻った。半寸の鋏の入れ止め。切りかけて、刃を離した跡。
この人は、ここで手を止めた。止めて、畳んで、紙に包んで、長持ちの底に入れた。そして三十年、開けなかった。
開けなかったのは、忘れたからではない。忘れたなら、ほかの反物と一緒に重ねて置く。この畳紙は、ほかの反物の下に、平らに敷くように置いてあった。上に重しを載せる形だ。
布を傷めない置き方だった。
いつか出すつもりの人の、置き方だった。
*
私は針箱を開けた。
縫うためではない。裁ち端が、三十年のあいだに何か所か毛羽立っていた。絹は、切りっぱなしにしておくと端から糸を吐く。吐き続ければ、いつか寸法が痩せる。
私は細い糸を選んで、端を止めた。
かがるのではない。かがると、そこが縫い代の中で厚くなる。二分だけ折って、ごく浅く一目ずつ拾っていく。あとでほどけるように、糸は返さない。
仕立てるのではない。ほつれを止めるだけだ。六枚ぶん止め終えるのに、一刻半かかった。
途中で一度、燭台の芯を切った。芯が伸びると火が揺れる。揺れる灯りで細かい目を拾うと、目が疲れるより先に、手が疲れる。
切ってから、明るくなった台の上で、私はもう一度だけ裁ち端の列を見渡した。三十年前の鋏の跡が、六枚とも同じ深さで入っていた。
誰の物か分からないうちは、縫わない。縫えば、それは私の仕立てになる。裁った人の仕事が、私の仕事に上書きされる。
直しというのは、前の人の仕事を残す仕事だ。残せないなら、手を入れてはいけない。
*
糸を切って、私は布を畳み直した。畳紙に戻して、四隅を折る。棚へ上げようとしたとき、階段の下から足音がした。
この時刻に上がってくるのは、一人しかいない。
「まだ起きていたか」
「いま終わりました」
局長は、台の上の畳紙を見た。それから、燭台が二つ出ているのを見た。
「二つ要る仕事か」
「裁ち端を見ておりました」
「何か分かったか」
「婚礼衣装です」
局長は、少し黙った。
「誰の」
「分かりません」
「そうか」
それから、局長は思い出したように言った。
「そなたに一つ、言い忘れていた」
「はい」
「今度の非番に、屋敷を見に来ないか」
私は畳紙を持ったまま、局長を見た。
「……屋敷、と申しますと」
「グレイルの家だ」
局長は、いつもの実務の声で言った。
「そなたが、いずれ住む家だ。見ておいたほうがいい。……先に言っておくが、古い」
「はい」
「かなり、古い」
私は、抱えた畳紙を、そっと棚へ上げた。
紙の角が棚板に触れる、乾いた音がした。
お読みいただきありがとうございます。
誰の物か分からないうちは、縫いません。縫えば、それは私の仕立てになってしまいますから。
次話——グレイルの家は、かなり古いそうです。
祖母が、まだ縫ってもいない一着に共裂を取っていたことに気づいた方。ブックマーク・評価で応援いただけると、次の針が進みます。




