↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
69/85

第69話 婚礼の裁ち方

 城下から戻ったあと、私は夕方までかかって、預かっていた分を片付けた。


 王女殿下の上着の地をどうするかは、まだ決めていない。決めていないので、その一件は手を付けずに置いた。手を付けられない一件を抱えているときは、手を付けられる一件から片付ける。それも祖母の教えだ。


 コリンヌが敷物の裏返しを二枚、アネットが洗い張りを三点、その日のうちに上げた。ポレットは帳面付けをして、途中で二度、字を間違えて書き直した。


「頭、今日の城下のこと、書いていいですか」


「帳面は、預かった品と返した品を書くものです」


「じゃあ、駄目ですね」


「覚えておきなさい。書かなくても、覚えていられます」


    *


 その夜、私は畳紙を下ろした。


 夕餉を済ませて、針子たちが引き上げたあとだった。燭台を二つに増やした。一つでは足りない。裁ち端を見るには、影ができない置き方がいる。


 台の上に、全部を並べた。


 前身が二枚。後ろ身が一枚。袖が二枚。衿。それから、細長い裁ち屑のような一枚。この一枚は、最初に見たときは余りだと思って、脇へ寄せていた。


 今夜は、それも並べた。


 最初に、打ち合わせを見た。


 前身の左右を重ねてみる。重なる幅が、深い。四寸ある。日常の着物なら二寸あれば足りる。四寸重ねるのは、動いても開かないようにするためだ。


 動いても開かない必要がある場面。長く立つ。人の前を歩く。頭を下げる。上げる。次に、裾。


 裾は裁ち落としていない。余りが六寸取ってある。丈は、着る人が決まってから詰める。仮に長くしておいて、あとで合わせる裁ち方だ。


 それから、縫い代。


 前も後ろも袖も、縫い代が一寸近い。普通は五分だ。倍取ってある。


 私は、そこで一度、手を止めた。


 縫い代を広く取るのは、あとで出すためだ。


 出すのは、着る人の身体が変わったときだ。太る。痩せる。年を取る。あるいは——着る人が、別の人に変わったとき。


 この布は、一度きりの日のために裁たれていない。


 その日のあとも、長く残るものとして裁たれている。


    *


 最後に、細長い一枚を手に取った。


 裁ち屑ではなかった。長さが二尺、幅が三寸。両端がきちんと直角に裁ってある。裁ち屑は直角にならない。


 これは、共裂だ。


 同じ反物から取って、直しのときのために別に残しておく一枚。伝来の御衣装には必ず添える。私は去年、先王妃様の大礼服の共裂を、桐の小箱から受け取っている。


 共裂がなぜ要るかというと、同じ反物は二度と手に入らないからだ。織り手が同じでも、年が違えば糸が違う。染めが同じでも、釜が違えば色が違う。焼けた一着を継ぐとき、最後に物を言うのは技ではなく、同じ反物が残っているかどうかだった。


 だから、仕立てる者は先に取っておく。使うかどうか分からない一枚を、着る人が一度も見ない一枚を、最初に裁って別にしておく。


 祖母は、まだ縫ってもいない一着に、共裂を取っていた。


 縫う前から、この一着がいつか傷むことを勘定に入れていたということだ。


    *


 私は椅子に座り直して、並べた布をもう一度、端から見た。深い打ち合わせ。裾の余り。倍の縫い代。共裂。


 この四つが揃うのは、一つの種類の衣装だけだ。


「……婚礼衣装」


 声に出してから、私は自分の声に少し驚いた。部屋には誰もいない。祖母は、誰かの婚礼のために、これを裁った。


 分かったのは、そこまでだった。


 誰の、が分からない。


 寸法は取ってある。背が低く、肩幅が広い人。それだけでは、誰にも行き着かない。


 私は祖母の技法ノートを出して、頁を繰った。この冬、門下の名の一覧を見つけた頁の、その先も全部。図と針目の見本が続いて、最後の数枚は白紙だった。


 白紙の頁を、私は光にかざしてみた。何も書いていない。書いて消した跡もない。ノートは、何も教えてくれなかった。


    *


 私は、袖の裁ち端に戻った。半寸の鋏の入れ止め。切りかけて、刃を離した跡。


 この人は、ここで手を止めた。止めて、畳んで、紙に包んで、長持ちの底に入れた。そして三十年、開けなかった。


 開けなかったのは、忘れたからではない。忘れたなら、ほかの反物と一緒に重ねて置く。この畳紙は、ほかの反物の下に、平らに敷くように置いてあった。上に重しを載せる形だ。


 布を傷めない置き方だった。


 いつか出すつもりの人の、置き方だった。


    *


 私は針箱を開けた。


 縫うためではない。裁ち端が、三十年のあいだに何か所か毛羽立っていた。絹は、切りっぱなしにしておくと端から糸を吐く。吐き続ければ、いつか寸法が痩せる。


 私は細い糸を選んで、端を止めた。


 かがるのではない。かがると、そこが縫い代の中で厚くなる。二分だけ折って、ごく浅く一目ずつ拾っていく。あとでほどけるように、糸は返さない。


 仕立てるのではない。ほつれを止めるだけだ。六枚ぶん止め終えるのに、一刻半かかった。


 途中で一度、燭台の芯を切った。芯が伸びると火が揺れる。揺れる灯りで細かい目を拾うと、目が疲れるより先に、手が疲れる。


 切ってから、明るくなった台の上で、私はもう一度だけ裁ち端の列を見渡した。三十年前の鋏の跡が、六枚とも同じ深さで入っていた。


 誰の物か分からないうちは、縫わない。縫えば、それは私の仕立てになる。裁った人の仕事が、私の仕事に上書きされる。


 直しというのは、前の人の仕事を残す仕事だ。残せないなら、手を入れてはいけない。


    *


 糸を切って、私は布を畳み直した。畳紙に戻して、四隅を折る。棚へ上げようとしたとき、階段の下から足音がした。


 この時刻に上がってくるのは、一人しかいない。


「まだ起きていたか」


「いま終わりました」


 局長は、台の上の畳紙を見た。それから、燭台が二つ出ているのを見た。


「二つ要る仕事か」


「裁ち端を見ておりました」


「何か分かったか」


「婚礼衣装です」


 局長は、少し黙った。


「誰の」


「分かりません」


「そうか」


 それから、局長は思い出したように言った。


「そなたに一つ、言い忘れていた」


「はい」


「今度の非番に、屋敷を見に来ないか」


 私は畳紙を持ったまま、局長を見た。


「……屋敷、と申しますと」


「グレイルの家だ」


 局長は、いつもの実務の声で言った。


「そなたが、いずれ住む家だ。見ておいたほうがいい。……先に言っておくが、古い」


「はい」


「かなり、古い」


 私は、抱えた畳紙を、そっと棚へ上げた。


 紙の角が棚板に触れる、乾いた音がした。

お読みいただきありがとうございます。

誰の物か分からないうちは、縫いません。縫えば、それは私の仕立てになってしまいますから。


次話——グレイルの家は、かなり古いそうです。


祖母が、まだ縫ってもいない一着に共裂を取っていたことに気づいた方。ブックマーク・評価で応援いただけると、次の針が進みます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。