第68話 請けておりません
古着市の裏通りは、十日前に来たときより賑やかだった。
店が三軒、戸を開けている。うち一軒は、まだ看板が新しい。木を削って字を彫って、油を引いただけの板だ。字は歪んでいた。
「読めますか」
私が訊くと、ポレットは板の前で腕を組んだ。
「……『な、お、し、ま、す』」
「はい」
「それだけですね」
「それだけで足ります」
*
婆さんの店は、いちばん奥だった。
間口一間の土間に、裁ち台が一つ。壁の釘に、直しを待つ衣が七、八着掛かっている。四十年やってきた人の店だ、と聞いていたが、道具は少なかった。針箱が一つと、鋏が二挺と、鏝が一つ。
その少ない道具の全部が、使い込まれて黒光りしていた。
「まあ、宮のお方が」
婆さんは腰を伸ばしながら立った。背が低い。私の肩までない。
「お座りになるとこ、ないんですけどねえ」
「立っております」
「そんなわけには」
結局、ポレットが土間の隅から空箱を二つ持ってきて、私たちはそれに座った。
*
婆さんは、いま、女物の一着を直しているところだった。
紺の綿で、胸から腹にかけて、前を広げる直しだ。産み月が近い人の一着だろう。脇から布を足して、足した分だけ紐の位置を下げる。
私は、その足し布を見て、少し驚いた。
同じ布ではなかった。同じ布が手に入らなかったのだろう。婆さんは、色の近い別の紺を使って、境目を縫い目でなく折り目にしていた。縫い目で継ぐと線が出る。折り目で合わせると、影になって見えなくなる。
四十年の手だった。
「上手ですね」
「ばれちまいますか」
「布が二種だとは、言われなければ分かりません」
「ああ、よかった」
婆さんは、足し布の続きに取りかかった。脇の下から裾へ向けて、細かく運んでいく。運びは速くない。速くないのに、針目が揃う。
途中で一度、手が止まった。
「……ここが、いつも」
止まったのは、脇の下の曲がりだった。まっすぐな線から曲がりへ移るところで、布が二枚ぶん重なって厚くなる。厚いところは針が通りにくい。通りにくいところで力を入れると、針目が飛ぶ。
婆さんの指が、少し震えていた。
「お貸しください」
私は言った。婆さんが顔を上げた。
「宮のお方に、そんな」
「三針だけです」
私は針を受け取って、指貫をはめた。婆さんの指貫だ。革が薄くなって、私の指には少し大きかった。
厚いところは、押すのではなく、指貫の腹で針の頭を回しながら送る。回しながら送ると、布の繊維のあいだを針が探して進む。祖母のやり方だ。曲がりの三針を通して、私は針を戻した。
婆さんは、その三針をじっと見ていた。
「……あんた、どこでそれを」
「祖母です」
「どこの、誰」
「エディスと申します」
婆さんは、しばらく黙っていた。それから、また針を持った。
「そうかい」
それだけだった。だが、そのあとの運びが、少し速くなった。
*
脇が縫い上がったところで、婆さんは針を休めた。
「……あたしね、書きは駄目なんですけどね。これだけは、四十年やってるんですよ」
「はい」
「去年、一度やめたんです。書付を置いていかれて、何て書いてあるか分からなくて。怖くなって」
「伺いました」
「でも、戻れました」
婆さんは、釘に掛かった七、八着のほうを、顎で示した。
「あれ、全部、去年の暮れから溜まってた分です。皆さん、待っててくれたんですよ」
私は、婆さんの手元をしばらく見せてもらってから、訊いた。
「婚礼の直しは、なさいますか」
婆さんの手が、止まった。
「婚礼は」
一拍あった。
「請けておりません」
「なぜでしょうか」
「なぜって……婚礼のものは、直さないもんですから」
「決まりが、あるのでしょうか」
「決まりってほどのもんじゃないですけどね」
婆さんは、針を進めながら言った。
「うちの母も、そう言ってましたよ。婚礼のものに古い手を入れると、縁が続かないって。継ぎを当てた着物で嫁げば、その縁も継ぎだらけになるって」
「……はい」
「あたしは、そんなこと本当かねえ、とは思ってますけどね。思ってても、請けません。請けて何かあったら、あたしのせいにされますから」
*
もう一軒は、若い夫婦がやっていた。
畳んだ店の爺さんの息子夫婦で、去年から継いだのだという。こちらは看板も店構えも整っていて、洗い張りの盥が三つ並んでいた。
同じことを訊いた。
「婚礼ですか。いえ、うちは」
「請けませんか」
「請けないというか、来ないですね」
若い主人は、盥から手を上げて言った。
「婚礼が決まると、皆さん、新しく仕立てに行かれますよ。仕立て屋のほうへ。うちみたいなところへは、婚礼のものは持ってこられません」
「そういうものですか」
「そういうものです。……昔からですよ、それは」
*
三軒目——もう一軒は、戸が閉まっていた。
閉まってはいたが、畳んだ店の閉まり方ではなかった。戸に板は打っていないし、軒先に物が出たままだ。留守なのだろう。
「ここ、開いてるはずですよね」
ポレットが覗き込んだ。
「開いております。人がいないだけです」
「どなたのお店なんですか」
道の反対側で、洗い物を干していた女が答えてくれた。
「オデットさんとこ? 今日は組合だよ」
「組合」
「理事さんになったんだよ、あの人。この春に位がついてさ。城下の直しの代表だってんで」
女は物干し竿を担ぎ直した。
「あの人が一番うるさく言ってたからね。あたしらにも仕事の値を付けろって。……そういう人が上に行くのは、いいことだよ」
私は、閉まった戸をしばらく見ていた。
軒先に、直しを待つらしい包みが二つ置いてあった。留守でも、置いていく人がいるということだ。
置いていけるというのは、信用されているということだった。
「頭、寄らないんですか」
「留守です」
「じゃあ、また来ればいいですね」
「……そうですね」
*
坂を上がって宮へ戻る道で、ポレットが後ろから言った。
「頭。婚礼のものを直さないって、宮の決まりのせいじゃなかったんですね」
「はい」
「城下は、婚礼令なんて知らないですよね」
「知らないでしょう」
「じゃあ、なんで同じなんですか」
坂の途中で、私は足を止めた。婚礼令は、王家の条だ。城下には及ばない。それなのに、城下でも婚礼の直しは請けられない。
条文が降りたのではない。降りたのは、もっと柔らかいものだった。婚礼のものに古い手を入れると縁が続かない。誰が言い出したのかも分からないまま、母から娘へ、四十年、伝わってきた言い方だ。
条文は、直せる。
言い方は、どう直すのだろう。
宮の門をくぐるとき、荷車の車輪が石畳を鳴らした。私は、その音が途切れるまで、立ち止まっていた。
お読みいただきありがとうございます。
継ぎを当てた着物で嫁げば、その縁も継ぎだらけになる——誰が言い出したのかも、もう分かりません。
次話——祖母の裁ち置きを、もう一度検めます。
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