第66話 書いてございますので
朝のうちに、銀鼠の裾を裁ち替えた。
踏み跡の三か所は、いちばん深いもので布目が三本切れていた。裾は輪にして折り返してあるから、折り返しをいったん解いて、痛んだ側を上に送り、下から新しい面を出す。丈が三寸出るのは、そのためだ。
裁ち替えるのは端の一寸だけだ。鋏は一気に入れる。当て布は要らない。要るのは、裁ったあとにすぐ端を止めることだけで、止めるのが遅れると絹は端から糸を吐く。
私は裾を止めてから、針箱の蓋を閉めた。
「頭、出かけるんですか」
「儀典方です。昼までに戻ります」
「その本、持ってくんですか」
ポレットが指したのは、婚礼令の写しだった。
「持っていきます。分からないところがあるので」
*
宮内府儀典方の部屋は、思っていたより静かだった。
式典局が人の出入りで一日じゅう賑やかなのに対して、こちらは書見台が壁に沿って八つ並んでいるだけで、話し声がしない。書役が四人、それぞれの台の前で紙を繰っている。
いちばん奥の台に、筆頭がいた。
「宮廷修繕方、頭殿」
立たなかった。顔だけこちらへ向けた。痩せて背の高い人で、座っていても目の高さが私と変わらない。指の側面に、紙を繰る者特有の胼胝があった。
「ベルナールと申します。御用は」
「婚礼令の写しをいただきました。九条について、伺いに参りました」
「読まれましたか」
「読みました」
「では、書いてあるとおりでございます」
それで話が終わるかと思ったが、ベルナール殿は台の上の綴じ本を私のほうへ向けた。
婚礼令の正本だった。紙が黄ばんで、角が丸くなっている。私はそれを両手で受け取った。受け取って、指が先に気づいた。
綴じ糸が切れかけている。
背の中ほど、二か所。麻の糸が毛羽立って、あと少しで抜ける。紙を繰るたびに、そこへ力がかかる。私は指の腹でその二か所をなぞった。
「頭殿」
「……失礼しました」
「いえ。何かございましたか」
「綴じが、あと二十回ほどで切れます」
ベルナール殿は、初めてこちらを正面から見た。
*
「九条は、王家の御婚礼の条でございます」
紙を繰りながら、ベルナール殿が言った。
「御婚礼の御衣装は、新調に限る。直しの手を入れたるものを用ふべからず。この二行で一つの条です」
「なぜ二行なのでしょうか」
「と、申されますと」
「新調に限る、と書けば、それで足ります。直しの手を禁じる一行は、重ねて書く必要がありません」
ベルナール殿は、少し黙った。
「……そうでございますな」
「お分かりになりますか」
「分かりません」
あっさりした答えだった。
「儀典方は、書いてあるとおりに式を運ぶところでございます。なぜ書いてあるかは、書いた者に聞くよりございません。書いた者は、おりません」
「では、どなたにも分からないのですね」
「さようで」
私は、もう一つ確かめなければならないことがあった。
「九条は、王家の御婚礼の条でございますね」
「さようで」
「私の婚礼には、及びませんか」
ベルナール殿は紙を繰った。繰る音が、部屋の中でやけに大きく聞こえた。十五枚目で手が止まった。
「第十五条。宮に職を有する者の婚儀、宮内にて行ふときは、この令に準ず」
私は、その一行を目で追った。
「……宮内にて、と」
「頭殿は宮に職を有しておられます。お相手は式典局長。式は宮内で行われましょう。……準じます」
「準ずる、というのは」
「九条も、及びます」
*
私は綴じ本を台に戻した。戻す手が、思ったより静かに動いた。頭の中では、いくつかのことが同時に落ちてきていた。
私の婚礼衣装に、直しの手を入れてはならない。
王女殿下の御婚礼の御衣装にも、直しの手を入れてはならない。
つまり——私の仕事は、この二つの婚礼のどちらにも、入れない。
「頭殿」
「はい」
「お顔の色が」
「いえ」
「申し上げておきますと、私は、この条を良いものだとも悪いものだとも思っておりません」
ベルナール殿は、書見台の上で手を組んだ。
「儀典方の役は、書いてあることを違えぬことでございます。情を挟めば、次の代の者が別の情を挟みます。そうなれば、条は無いのと同じでございます」
「……はい」
「ですので、お気持ちには沿えません。書いてございますので」
*
私は、退がる前に一つだけ申し出た。
「この綴じ本を、お預かりできませんか」
「これを」
「綴じ直します。二日いただければ、お返しします」
ベルナール殿は、初めて困った顔をした。
「……儀典方の控えは、部屋から出せぬのでございます」
「では、ここで直します」
*
翌日、私は針箱を持って儀典方へ行った。
書見台を一つ借りて、綴じ本をほどいた。古い麻糸を抜いて、紙を折り丁ごとに分けて、束を揃える。角が丸くなった紙は、束ねると端が揃わない。揃わないところに力が集まって、また切れる。
私は当て紙を作って、傷んだ折り目の内側に貼った。当て紙は、布の当て布と同じで、角を丸く落とす。四角いまま貼ると、角から先に剥がれる。貼ったのは二か所だけだ。ほかは触らない。
新しい糸で綴じ直した。麻の太糸を蝋引きにして、元と同じ穴を使った。新しい穴を開けると、紙が弱る。針は太いものに替えた。布用の細い針では、紙に負けて曲がる。
綴じは、布を縫うのと運びが違う。布は針を送りながら進むが、紙は一針ごとに手を止めて、穴の位置を目で確かめてから通す。急ぐと紙が裂ける。裂けた紙は、布と違って伸ばして戻すことができない。
最後に、背の布を替えた。元の布は端が裂けていたので、宮の端切れの籠から、いちばん近い色の麻を切って当てた。裁つときに、糸目をまっすぐ取った。背の布は目が曲がると、開くたびに一方へ引かれる。
三刻かかった。
「……早いものですな」
いつのまにか、ベルナール殿が横に立っていた。
「いえ。紙は布より簡単です」
「そうでございますか」
「布は伸びますが、紙は伸びません。伸びないものは、寸法どおりに戻ります」
*
綴じ直した正本を台へ戻して、私は退がった。階段を下りるとき、後ろから書役が追ってきた。
「頭殿。筆頭からの申し伝えでございます」
「はい」
「王女殿下の御願い出が、儀典方へ正式に上がりましてございます」
私は足を止めた。
「御裁定は、いつ」
「三日のうちに」
書役は一礼して戻っていった。
私は階段の途中で、手のひらを見た。蝋引きの糸を引いたので、指の腹に細い線が残っていた。
紙は伸びない。寸法どおりに戻る。
条文も、そうなのだろう。
お読みいただきありがとうございます。
情を挟めば、次の代の者が別の情を挟む。そうなれば、条は無いのと同じ——儀典方の筆頭は、そう言いました。
次話——御裁定が、三日のうちに下ります。
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