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第65話 名が、並ぶ

 銀鼠の脇を出すのは、半日がかりの仕事になった。


 まず脇の縫い目をほどく。前身と後ろ身を切り離して、縫い代を確かめる。先王妃様の頃の仕立ては、縫い代をたっぷり取ってあった。片側で一寸五分。二枚で三寸。これだけあれば、身幅は足りる。


 ただし、縫い代の折り跡が残っている。二十年以上、同じところで折られていた布は、そこに白い筋が入る。出したあと、この筋が表に出る。


「消えますか」


 ポレットが訊いた。


「消えません。湿して、鏝で殺します。跡は薄くなりますが、無くはなりません」


「じゃあ、見えちゃいますね」


「脇です。人の目は、脇へは行きません」


 私は湿した布を当てて、鏝を置いた。強く押すと今度は照りが出る。置いて、待って、離す。三度に分けた。


 三度目のあとで、布を取って、筋の場所に指を当てた。まだ指に分かる。目では、もう探さないと見つからない。


 ここで止める。これ以上かけると、地のほうが参る。直しは、直しきらないところで止める仕事だ。


    *


 昼前に、式典局の書役が二人上がってきた。


 婚姻の届けを取りに来たのだった。届けは宮内府へ回る前に、式典局で書式を整える。局長が自分で持ってこないのは、局長が書けない欄があるからだ。


 紙は宮内府の書式で、上に日付、下に立会いの二名、真ん中に当事者の欄がある。判で押したような紙だ。宮ではこの紙で、叙任も、拝領も、退官も届ける。人が一つ動くたびに、同じ形の紙が一枚出る。


 紙を広げると、欄が二つ並んでいた。


 左に、アルヴィン・グレイル。もう書いてあった。細い、角の立った字だった。この人の字は請求書で何百回も見ている。


 右が空いていた。


 私は筆を取って、そこに自分の名を書いた。


 リディア・アシュフォード。


 書き終えて、少し離して見た。二つの名が、同じ紙の上に並んでいた。


 一年半前、私の名は夜会の招客の帳面から消された。その年の宮の台帳には、「お直し係」としか書かれなかった。名が紙に載るということに、私はまだ慣れていない。


「頭」


 書役が言った。


「こちらは、婚姻後のお名で、もう一枚いただきます」


 もう一枚の紙には、リディア・グレイル、と書いた。書きにくかった。字が自分のものに見えなかった。


「宮の名簿は、どうなりますか」


「据え置きでございます。裁可がございますので」


 書役は帳面をめくって、条文を指で示した。宮に職を有する者、婚姻を理由として職を解くことなし。あの夜、局長が持ってきた一枚だ。


「名簿の名は、職に付くものでございます。頭が名簿に載っているのは、リディア・アシュフォードという方が修繕方の頭だからで、どなたの妻であるかは、名簿の関わるところではございません」


「では、私は」


「二つの帳面に、別々のお名で載られます」


    *


 書役が下りたあと、ポレットが台の向こうから顔を出した。


「頭、名前、二つになるんですか」


「そうなります」


「どっちが本物ですか」


「どちらも本物です」


「えー」


 ポレットは納得のいかない顔をした。それから、思いついたように言った。


「じゃあ、仕立て札は、どっちで書くんですか」


 私は鏝を置いた。


    *


 仕立て札は、襟の裏に縫い込む小さな布だ。仕立てた年と、縫い手の名を書く。


 この宮では、新調のときだけでなく、直したときにも書く。そう決めたのは私だ。去年の初夏、大礼の支度の終わりに私が決めて、マダムが認めて、それから宮の慣いになった。


 名を書くというのは、そういうことだった。名の消された針子がいて、その名を消した者がいて、三十年後に名簿の頁からその名が出てきた。だから書く。


 私は自分の針箱から、白い札を一枚出した。


「ポレット。あなたなら、どちらを書きますか」


「え、あたしですか」


「あなたが札を書くとき、迷ったら、どう決めますか」


 ポレットは、真剣な顔で考えた。この子は考えるとき、必ず手を動かす。糸巻きを一つ取って、端をそろえていた。


「……あたしは、名前しか持ってないんで」


 ポレットが言った。


「家の名とか、無いんです。だから、いつも同じです。ポレット、しか書けません」


「はい」


「でも、それでいいと思ってます。だって、縫ったのはあたしなんで」


    *


 私は札に、宮の名を書いた。


 リディア・アシュフォード。


 書いてから、ポレットに見せた。


「縫ったのは、その名の人間です」


「はい」


「嫁いだあとも、この部屋で縫うのは、その名の人間です。だから、札はこの名で書きます」


「もう一つのお名前は、いつ使うんですか」


「帳面と、それから——」


 私は、そこで言葉に詰まった。


「家で使います」


 ポレットが、にやりと笑った。十六の顔ではなかった。


「頭、いま、ちょっと恥ずかしそうでした」


「恥ずかしくありません」


「顔が」


「顔は、昨日から同じ位置にあります」


    *


 夕方、銀鼠の脇が上がった。


 出した縫い代の折り筋は、鏝でだいぶ薄くなった。腕を通してみると、去年より一寸ずつ広い。殿下がお動きになっても、脇が引かれることはない。


 あとは丈と、裾の裁ち替えと、上に重ねる一枚。上着の地をどこから取るかは、まだ決めていない。


 同じ織はもう無い。似た地を探すか、この一着の裏から取るか。裏から取れば色は完全に揃うが、裏を足さなければならない。裏を足せば、この一着はもう、先王妃様の頃のままではなくなる。


 どこまでを残して、どこから替えるのか。その線を引くのが、直しという仕事のいちばん難しいところだ。


 私は銀鼠を衣桁に掛け直して、明日の分の糸を選んだ。


    *


 部屋を出ようとしたとき、階段の下から書役が上がってきた。今度は儀典方の書役だった。


「宮廷修繕方、頭殿。達しでございます」


 私は受け取った。封は厚かった。部屋に戻って、燭台に火を入れ直して、封を切った。


 中は婚礼令の写しだった。王家の婚礼の式次第と装いを定めた古い条々。写しは全部で十七条あった。


 私は一条ずつ読んでいった。


 九条目に、目が止まった。


 『御婚礼の御衣装は、新調に限る』


 その下に、細い字でもう一行あった。


 『直しの手を入れたるものを用ふべからず』


 私は、その二行を三度読んだ。


 新調に限る、のほうは、まだ分かる。王家の婚礼は新しく始まるものだから、装いも新しくする。そういう考え方があるのは知っている。


 分からないのは、下の一行だった。新調に限ると書いてあるなら、それで足りる。なぜもう一行、直しの手を名指しで禁じる必要があったのか。


 燭台の火が、紙の縁を少し透かしていた。衣桁の銀鼠が、その明かりの外で、黙って掛かっていた。

お読みいただきありがとうございます。

名簿の名は職に付くもので、どなたの妻であるかは名簿の関わるところではないのだそうです。


次話——九条目を、読みに行きます。

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