第64話 あの銀鼠で、嫁ぎたいのだけれど
西離宮の小間に通されると、銀鼠はもう衣桁に掛けてあった。
去年の早春、王女殿下が建国祭の階段に立った一着だ。もとは先王妃様の若い頃の一着で、寸法を直して殿下に移した。大礼の日にも着ていただいた。拝賀では二度。
私は膝をついて、まず裾から見た。
衣装を検めるのに順番がある。裾、脇、袖付け、衿、留め。下から上へ、動かない場所から動く場所へ。上から見ると、目立つ傷みに引かれて、静かに進んでいる傷みを見落とす。
踏まれている。前の裾に、半円の跡が三つ。階段で自分の裾を踏んだ跡だ。踏んだ人の癖で、必ず同じ側につく。
次に脇。両の脇下が、布目がゆるんで白っぽくなっていた。腕を動かす場所だからではない。この一年で、殿下の身丈が伸びたのだ。伸びた身体を、伸びない一着に入れれば、どこかが引かれる。
留めも見た。背中の釦が十二。そのうち三つめと四つめの糸足が伸びている。着せるときに、侍女がいつも同じ順で留めているのだ。伸びた糸足は、そのうち切れる。
こういうものは、着る人には分からない。着る人は、いつも同じところが留めにくいと思っているだけだ。
「ひどいかしら」
衝立の向こうから殿下の声がした。
「ひどくはございません。よくお召しになった跡です」
「それ、慰めではなくて?」
「着られない服は傷みません。傷みがあるのは、着ていただけた証です」
少し間があって、衝立の向こうで笑う気配がした。
*
「ねえ、お直し係」
殿下は、いまだに私をそう呼ぶ。
「宮廷修繕方の頭でございます」
「知っているわ。長いんですもの」
衝立が動いて、殿下が出ていらした。十七におなりになる。背が伸びて、去年「わたくし、太ったのかしら」と仰った方と同じ人には見えなかった。
「わたくし、嫁ぐことになりました」
私は針を持つ手を膝に置いて、頭を下げた。
「おめでとうございます」
「北のフェルダン辺境伯家。ユーグ様といって、お会いしたのは二度。背が高くて、あまりお話しにならない方」
「どのような方でございましたか」
「二度目のとき、廊下が寒くて、わたくしが黙って立っていたら、上着を脱いで掛けてくださったの。何も仰らずに」
殿下は、そこで少しだけ笑った。
「それだけで決めるのは、浅いかしら」
「上着は、その方の使い方が出ます」
「どういうこと」
「人に掛けた上着を、戻ってきたときにどう扱うかで、だいたい分かります」
「まあ」
殿下は面白そうな顔をなさった。
「では、次にお会いしたら見ておくわ」
「畳んでお返しになる方は、几帳面な方です。そのままお持ちになる方は、貸したことをお忘れの方です」
「どちらでもない場合は?」
「掛けたまま、持ち主の肩へ戻される方がおられます」
「それは、何ですの」
「……いちばん厄介です。返す気がないという意味ですから」
殿下が、扇の陰で小さく笑われた。
*
式は、来年の初冬と決まったという。
北は冬が早い。雪が積もる前に輿入れを済ませたいので、逆算して初冬になった。支度には一年と少しある。
「一年あれば、十分でございますね」
「そう思う?」
「衣装の支度としては、十分です」
殿下は衣桁の銀鼠に目をやった。それから、思いのほか静かな声で仰った。
「わたくし、あの銀鼠で嫁ぎたいのだけれど」
*
私は、すぐには返事をしなかった。返事のかわりに、もう一度、衣桁の一着を見た。
銀鼠は、婚礼の色ではない。だが色の格は十分にある。地は緻密で、光の当たり方で銀に見えたり鼠に見えたりする。先王妃様の頃の織で、いまはもう同じものが織れない。
直すとすれば、脇を出し、丈を足し、裾の踏み跡を裁ち替える。身丈が伸びた分の布は、裾の折り返しから出せる。折り返しは、たっぷり取ってあった。
私は裾をめくって、折り返しの内側に指を入れた。幅は四寸。三寸出しても、一寸は残る。残しておかないと、次に直す者が困る。
折り返しの内側だけ、色が濃かった。日に当たっていないからだ。出せば、その濃い側が表に出る。表に出た側は、これから褪せていく。何年かして、境目は分からなくなる。
直せる。
「殿下」
「無理だと言うのでしょう」
「いいえ」
殿下が、こちらを見た。
「直せます」
*
「……本当に?」
「脇を一寸ずつ出せば、身幅は足ります。丈は裾の折り返しから三寸出ます。踏み跡の三か所は、裾を裁ち替えれば消えます。それから、上に一枚」
「一枚?」
「北は寒うございます。同じ地で上着を新しく仕立てて、重ねてお召しになる形にすれば、色は揃います。婚礼の一着として、格も足ります」
殿下は、手を口元に当てて、しばらく黙っておられた。
「……あなた、もう考えていたのね」
「いま考えました」
「嘘」
「裾を見たときから、半分ほど」
殿下が、今度は声を出して笑った。
*
「あのね、お直し係」
「はい」
「わたくし、なぜこれで嫁ぎたいか、言っておきます」
殿下は衣桁に近づいて、袖に手を触れた。
「これを最初に着た日、わたくし、階段の上で笑われるのだと思っていたの。用意されていた新しいドレスは、着られなかった。わたくしの身体に合わなかったんですもの。それで、あなたが持ってきた古い一着を着て、階段に立ったの」
「はい」
「誰も笑わなかった」
袖から手が離れた。
「だから、これで行くの。新しく作っていただいたもので嫁ぐのは、立派なことでしょうけれど。……わたくしを階段に立たせたのは、これですから」
私は、また膝の上で手を畳んだ。うまく畳めていなかった。
「承りました」
*
宮へ戻る道々、私は頭の中で寸法を組み直していた。
脇を一寸。丈を三寸。踏み跡の裁ち替え。上着は同じ地が織れないから、近い地を探すか、裏から取るか。裏から取れば、量は足りる。
考えることは、いくらでもあった。
修繕方の部屋へ上がると、机の上に書き付けが一通あった。宮内府儀典方からだった。
私は封を切らずに、差出しの名をしばらく見ていた。
儀典方は、式次第を司る部署だ。婚礼の支度が動き出したなら、まずここから何か来る。当然の道筋だった。封を切った。
中身は、殿下のお召し物について、修繕方に何を尋ねるでもなかった。銀鼠のことも、上着のことも、一言も書いていない。
書いてあったのは、御婚礼の支度は追って達す、という一行だけだった。
私は紙を帳面に挟んだ。挟んで、糸切り鋏で紙の端を切り揃えた。切り口が、思ったよりまっすぐに落ちなかった。
お読みいただきありがとうございます。
着られない服は傷みません。傷みがあるのは、着ていただけた証です。
次話——儀典方から、追って達しが来ます。
「誰も笑わなかった」の一行で建国祭の階段を思い出した方。ブックマーク・評価で応援いただけると、次の針が進みます。




