第62話 縫われなかった絹
祖母の家は、城下の外れの、坂の途中にあった。
十日後の非番に、私はポレットを連れて行った。ひとりで行くつもりだったのに、この子が朝から裁ち台の前で妙にそわそわしていたので、結局、連れて行くことになった。
「ここですか」
「ここです」
二階建ての、間口の狭い家だ。一階が仕事場で、二階が住まい。戸を開けると、長く閉めきった家の埃と、かすかに糊の匂いがした。
糊の匂いは、消えないものらしい。
*
仕事場は、ほとんど何も残っていなかった。
祖母が亡くなったあと、道具は私が宮へ持って行った。針箱も、技法のノートも、鏝も。残っているのは、裁ち台と、壁に打った棚と、床に置かれた長持ちが一つだけだった。
「あ、これ」
ポレットが裁ち台の縁を撫でていた。
「宮の台と、同じ傷がついてます」
「同じ傷」
「ここ。角の内側が、丸く減ってます。うちのも減ってます」
私は屈んで見た。台の角が、握り拳ほどの範囲で、わずかに丸い。布を引くときに手首が当たるところだ。三十年、同じ角で布を引けば、木は減る。
宮のお直し部屋の台にも、同じところに同じ窪みがある。
私はそこを知っていた。知っていたが、二つを並べて考えたことはなかった。
「……そうですね」
「同じ人が使ったんですか」
「いいえ。でも、同じ引き方をした人が使いました」
*
長持ちは、思ったより重かった。
蓋の金具が固く、二人がかりで持ち上げた。開けたとたん、樟脳の匂いが立った。強い匂いだった。相当の量を入れてある。虫をきらう人だった。
上の段は、日用の布だった。手拭き、前掛け、当て布用の端切れを畳んだ束。どれも洗いざらしで、どれも繕ってある。
私は前掛けを一枚、取り上げた。
紺の厚地で、胸のところが白く褪せている。鏝を当てる位置だ。ここだけが褪せる。ポケットの角が破れていて、そこに当てが入っていた。当ては同じ紺ではなく、色の合わない鼠色だった。
「色、合ってないですね」
「合っていません」
「おばあさま、間違えたんですか」
「いいえ。手元にあったものを使ったのだと思います」
私は当ての縫い目を見た。角を丸く切って、三辺を先に止めてある。祖母の手だ。ヴァレンタンの仕事着の袖口と、同じ止め方だった。
破れたのは、この当てとは別のところだった。ポケットの反対側の角が、いま、新しく裂けかけている。私は針箱を出した。
「繕うんですか」
「畳む前に、繕います」
「でも、もう誰も着ないですよ」
「着ないものを繕ってはいけない決まりは、ありません」
ポレットが黙った。それから、隣に座って、糸を通してくれた。
裂けかけた角に当てを入れる。厚地の当ては、角を丸く切る。四角いまま入れると、角の一点に力が集まって、そこからまた裂ける。丸く切れば力が散る。祖母の教えで、私がポレットに最初に教えたことの一つだ。
三辺を先に止めて、最後の一辺は布を送りながら止める。そうしないと、当てが吊る。
「頭、これ、おばあさまの前掛けなんですよね」
「はい」
「直したの、リディアさまですよね。いま」
「はい」
ポレットは、それきり何も言わなかった。糸の端を切って、また次の糸を通した。この子は、言わないほうがいいことを、だんだん覚えてきている。
*
下の段は、反物だった。
使いかけの木綿が三反。紫紺の絹が一反——これは見覚えがあった。祖母が稽古に使っていたものだ。稽古布に紫紺を使う人はいない。高すぎる。祖母は三十年、それで稽古をしていた。
その下に、畳紙が一つ、平らに入っていた。
ほかの反物の下に敷くように置いてあった。私は両手で持ち上げた。軽かった。反物一反より、ずっと軽い。
「なんですか、それ」
「……分かりません」
畳紙は、上等の厚紙だった。角が擦れておらず、折り目も一度しか付いていない。何度も開け閉てされた紙ではない。
私は裁ち台に載せて、畳紙を開いた。
絹が出た。
生成りがかった白だった。厚みがあって、地が詰んでいる。上物だ。宮の庫でもめったに出ない等級のものだった。
畳んであるのを、私は台の上に広げた。
広げて、手が止まった。
*
裁ってあった。
反物ではなかった。身頃と、袖と、衿。いくつもの形に、すでに裁ち分けられていた。裁ち端はどれも直線で、迷った跡がない。一度で裁っている。
それだけの布が、そこに畳まれていた。私は、一枚ずつ台の上に並べた。並べながら、指先で端を確かめた。
縫い針が、一本も入っていない。
しつけ糸もない。仮止めの一針もない。裁ったまま、三十年、ここに置かれていた。
「……あの」
ポレットが小さな声で言った。
「これ、誰のですか」
私は、並べた布の端をもう一度だけ指で押さえて、何も言わなかった。
*
袖の裁ち端に、一か所だけ、鋏の入れ止めがあった。
切り込みが半寸ほど入って、そこで止まっている。切り終えた端ではない。切りかけて、途中で刃を離した跡だ。
裁つ人は、途中で手を止めない。裁ちは一息でやる。迷いが入ると線が揺れる。祖母は私に十度もそう言った。
その祖母が、途中で刃を離していた。
私は、その半寸の切り込みを、しばらく見ていた。
急に止めたのだ。続きを裁つつもりで、止めて、それきりになった。
「リディアさま」
「はい」
「これ、おばあさまが、リディアさまに遺したんじゃないですか」
私は、自分でも同じことを考えていた。考えて、すぐに疑った。
遺すつもりなら、縫う。祖母はそういう人だった。渡すものは仕上げて渡す。仕上げられないなら、せめて畳んで、紙を入れて、誰の物かを書いて置く。
これには、何も書いていない。紙を確かめた。畳紙にも、裏にも、墨の跡はなかった。
「……どうでしょうか」
私はそれだけ言って、布を畳み直した。
*
日が傾いてから、私たちは家を出た。
私は畳紙を抱えていた。ポレットが前掛けと紫紺の反物を持った。坂を下りながら、この子は一度も喋らなかった。宮へ着く手前で、やっと訊いた。
「持って帰って、どうするんですか」
「まだ、決めていません」
「縫うんですか」
「縫うかどうかは、誰の物かが分かってからです」
その夜、私は部屋の燭台に火を入れて、もう一度だけ畳紙を開いた。
開いて、身頃を一枚取り、自分の肩に当ててみようとして——やめた。
やめて、畳んだ。
畳紙の四隅を、順に折る音がした。畳む手が、いつもより遅かった。
祖母は、これを誰のために裁ったのだろう。
お読みいただきありがとうございます。
裁ちは一息でやる。迷いが入ると線が揺れる——そう言った人が、袖の途中で刃を離していました。
次話——肩に、当ててみます。
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