↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
62/86

第62話 縫われなかった絹

 祖母の家は、城下の外れの、坂の途中にあった。


 十日後の非番に、私はポレットを連れて行った。ひとりで行くつもりだったのに、この子が朝から裁ち台の前で妙にそわそわしていたので、結局、連れて行くことになった。


「ここですか」


「ここです」


 二階建ての、間口の狭い家だ。一階が仕事場で、二階が住まい。戸を開けると、長く閉めきった家の埃と、かすかに糊の匂いがした。


 糊の匂いは、消えないものらしい。


    *


 仕事場は、ほとんど何も残っていなかった。


 祖母が亡くなったあと、道具は私が宮へ持って行った。針箱も、技法のノートも、鏝も。残っているのは、裁ち台と、壁に打った棚と、床に置かれた長持ちが一つだけだった。


「あ、これ」


 ポレットが裁ち台の縁を撫でていた。


「宮の台と、同じ傷がついてます」


「同じ傷」


「ここ。角の内側が、丸く減ってます。うちのも減ってます」


 私は屈んで見た。台の角が、握り拳ほどの範囲で、わずかに丸い。布を引くときに手首が当たるところだ。三十年、同じ角で布を引けば、木は減る。


 宮のお直し部屋の台にも、同じところに同じ窪みがある。


 私はそこを知っていた。知っていたが、二つを並べて考えたことはなかった。


「……そうですね」


「同じ人が使ったんですか」


「いいえ。でも、同じ引き方をした人が使いました」


    *


 長持ちは、思ったより重かった。


 蓋の金具が固く、二人がかりで持ち上げた。開けたとたん、樟脳の匂いが立った。強い匂いだった。相当の量を入れてある。虫をきらう人だった。


 上の段は、日用の布だった。手拭き、前掛け、当て布用の端切れを畳んだ束。どれも洗いざらしで、どれも繕ってある。


 私は前掛けを一枚、取り上げた。


 紺の厚地で、胸のところが白く褪せている。鏝を当てる位置だ。ここだけが褪せる。ポケットの角が破れていて、そこに当てが入っていた。当ては同じ紺ではなく、色の合わない鼠色だった。


「色、合ってないですね」


「合っていません」


「おばあさま、間違えたんですか」


「いいえ。手元にあったものを使ったのだと思います」


 私は当ての縫い目を見た。角を丸く切って、三辺を先に止めてある。祖母の手だ。ヴァレンタンの仕事着の袖口と、同じ止め方だった。


 破れたのは、この当てとは別のところだった。ポケットの反対側の角が、いま、新しく裂けかけている。私は針箱を出した。


「繕うんですか」


「畳む前に、繕います」


「でも、もう誰も着ないですよ」


「着ないものを繕ってはいけない決まりは、ありません」


 ポレットが黙った。それから、隣に座って、糸を通してくれた。


 裂けかけた角に当てを入れる。厚地の当ては、角を丸く切る。四角いまま入れると、角の一点に力が集まって、そこからまた裂ける。丸く切れば力が散る。祖母の教えで、私がポレットに最初に教えたことの一つだ。


 三辺を先に止めて、最後の一辺は布を送りながら止める。そうしないと、当てが吊る。


「頭、これ、おばあさまの前掛けなんですよね」


「はい」


「直したの、リディアさまですよね。いま」


「はい」


 ポレットは、それきり何も言わなかった。糸の端を切って、また次の糸を通した。この子は、言わないほうがいいことを、だんだん覚えてきている。


    *


 下の段は、反物だった。


 使いかけの木綿が三反。紫紺の絹が一反——これは見覚えがあった。祖母が稽古に使っていたものだ。稽古布に紫紺を使う人はいない。高すぎる。祖母は三十年、それで稽古をしていた。


 その下に、畳紙が一つ、平らに入っていた。


 ほかの反物の下に敷くように置いてあった。私は両手で持ち上げた。軽かった。反物一反より、ずっと軽い。


「なんですか、それ」


「……分かりません」


 畳紙は、上等の厚紙だった。角が擦れておらず、折り目も一度しか付いていない。何度も開け閉てされた紙ではない。


 私は裁ち台に載せて、畳紙を開いた。


 絹が出た。


 生成りがかった白だった。厚みがあって、地が詰んでいる。上物だ。宮の庫でもめったに出ない等級のものだった。


 畳んであるのを、私は台の上に広げた。


 広げて、手が止まった。


    *


 裁ってあった。


 反物ではなかった。身頃と、袖と、衿。いくつもの形に、すでに裁ち分けられていた。裁ち端はどれも直線で、迷った跡がない。一度で裁っている。


 それだけの布が、そこに畳まれていた。私は、一枚ずつ台の上に並べた。並べながら、指先で端を確かめた。


 縫い針が、一本も入っていない。


 しつけ糸もない。仮止めの一針もない。裁ったまま、三十年、ここに置かれていた。


「……あの」


 ポレットが小さな声で言った。


「これ、誰のですか」


 私は、並べた布の端をもう一度だけ指で押さえて、何も言わなかった。


    *


 袖の裁ち端に、一か所だけ、鋏の入れ止めがあった。


 切り込みが半寸ほど入って、そこで止まっている。切り終えた端ではない。切りかけて、途中で刃を離した跡だ。


 裁つ人は、途中で手を止めない。裁ちは一息でやる。迷いが入ると線が揺れる。祖母は私に十度もそう言った。


 その祖母が、途中で刃を離していた。


 私は、その半寸の切り込みを、しばらく見ていた。


 急に止めたのだ。続きを裁つつもりで、止めて、それきりになった。


「リディアさま」


「はい」


「これ、おばあさまが、リディアさまに遺したんじゃないですか」


 私は、自分でも同じことを考えていた。考えて、すぐに疑った。


 遺すつもりなら、縫う。祖母はそういう人だった。渡すものは仕上げて渡す。仕上げられないなら、せめて畳んで、紙を入れて、誰の物かを書いて置く。


 これには、何も書いていない。紙を確かめた。畳紙にも、裏にも、墨の跡はなかった。


「……どうでしょうか」


 私はそれだけ言って、布を畳み直した。


    *


 日が傾いてから、私たちは家を出た。


 私は畳紙を抱えていた。ポレットが前掛けと紫紺の反物を持った。坂を下りながら、この子は一度も喋らなかった。宮へ着く手前で、やっと訊いた。


「持って帰って、どうするんですか」


「まだ、決めていません」


「縫うんですか」


「縫うかどうかは、誰の物かが分かってからです」


 その夜、私は部屋の燭台に火を入れて、もう一度だけ畳紙を開いた。


 開いて、身頃を一枚取り、自分の肩に当ててみようとして——やめた。


 やめて、畳んだ。


 畳紙の四隅を、順に折る音がした。畳む手が、いつもより遅かった。


 祖母は、これを誰のために裁ったのだろう。

お読みいただきありがとうございます。

裁ちは一息でやる。迷いが入ると線が揺れる——そう言った人が、袖の途中で刃を離していました。


次話——肩に、当ててみます。


三十年、縫われないままだった絹に、何か言いたくなった方。ブックマーク・評価で応援いただけると、励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。