第61話 日取りが、決まらない
大礼の間の幕は、三十年物だった。
天井から床まで届く紺の厚地が四枚。冬のあいだ吊りっぱなしにしてあったものを、春の入れ替えで下ろす。下ろしてみて、私は裾を見て、しばらく黙っていた。
踏まれた跡が、帯のように続いていた。
「ひどいですね」
ポレットが横から覗き込んで言った。この子は最近、感想を言う前に必ず一度しゃがむ。しゃがんで下から布を見る。私が教えたわけではない。マダムの癖だ。
「ひどくはありません。三十年ぶんです」
「三十年」
「毎年の拝賀で、何百人が裾を踏んで通ります。踏まれたところだけが薄くなる」
私は指先で織り目をたどった。緯の糸が抜けて、経だけが残っている。光にかざすと、そこだけ格子に透けた。
「上げます」
「上げる、って」
「裾を五寸切って、上へ詰める。天井側は誰も踏みません。丈が五寸縮んだことに、気づく人はいないでしょう」
ポレットが目を丸くした。
「切っていいんですか、王宮のものを」
「幕は、床に届いていれば幕です」
*
宮廷修繕方になって、ひと月が経っていた。
部の名が変わっても、部屋は変わらない。屋根裏に近い日当たりの悪い一室で、裁ち台が二つと、燭台が三つ。増えたのは壁際の棚と、掛かっている帳面の数だけだ。
変わったのは、掌るものの範囲だった。沙汰にはこう書いてあった。宮の衣装・幕・敷物・旗を掌る、と。旗、の一文字を見たとき私は少し笑った。一年半前、私は毎日ひとりで綻びを繕っていた。
いまは針子が二人と、徒弟が一人いる。
「頭」
コリンヌが帳面を持って上がってきた。この呼び方にも、まだ慣れない。
「南の回廊の敷物、三枚ぶん寸法を取りました。二枚は端の擦れだけです。一枚は、真ん中に焦げがあります」
「燭台ですね」
「たぶん。落ちた跡の形です」
「焦げは抜けません。裏返して、擦れた側を表に出しましょう。焦げが下に来ます」
「裏返す、ですか」
「敷物は両面織りです。裏が使えるものは裏を使います」
コリンヌが帳面に書きつけた。書く手が速くなった。
去年の秋、この人は自分の名を書くのにも時間がかかった。広間では、針子は帳面を持たない。持つのは上の者だけだ。いまは寸法も、糸の番手も、直しの見立ても、全部この人が書く。
書けるようになると、人は先に気づくようになる。焦げを見て燭台だと分かるのは、目がいいからではない。何度も書いて、何度も見直したからだ。
*
昼前に、式典局から書き付けが来た。
封をあけると、中身は御用の予定表だった。夏の拝賀、秋の叙任、冬の御名披露。そのそれぞれに、式典局長の名と、修繕方の頭の名が並んで書いてある。
いちばん下に、細い字で一行あった。
『婚姻の儀、日取り未定』
私はその一行を、しばらく見ていた。
*
その夜、局長が来た。手ぶらではなかった。予定表をもう一枚持っていた。私のところへ来た写しよりも、書き込みが多い。
「日取りだが」
「はい」
「夏は、動かせん」
「拝賀がございます」
「秋も動かせん」
「叙任がございます」
局長は指で紙をたどった。
「冬は」
「御名披露と、その支度で、十一月から二月まで埋まっております」
「そうだな」
私も自分の帳面を開いた。幕の入れ替えが春と秋。敷物が梅雨の前。旗は、風の強い季節のあとに必ず一度、全部下ろして検める。
二人ぶんの予定を並べると、空いている週が、一年のうちに三つしかなかった。
「三つございます」
「三つある」
私たちはその三つを見た。一つは城下の市の週で、職人がみな出払う。一つは長雨の時季で、絹が乾かない。残りの一つは、ちょうど御用の締めで、局長が三日眠れない週だった。
「……ないな」
「ございませんね」
局長は紙を置いて、眉のあたりを指で押さえた。
「宮の職を解かれぬようにと、条文まで書かせておいて、その職に日取りを潰されるとはな」
「書いたものは、消すのに理由が要るのだそうです」
「誰が言った」
「局長です」
局長が横を向いた。笑いを堪えるときの咳が出た。
*
「衣装は、どうする」
紙を畳みながら、局長が言った。私は針の手を止めた。幕の裾を上げる仕事の途中だった。まち針を打った列が、裁ち台の上でまっすぐ並んでいた。
「衣装、と申しますと」
「そなたの衣装だ」
私は、まち針を一本抜いて、また同じところへ打ち直した。打ち直す必要のない一本だった。
「……考えておりませんでした」
「嘘だな」
「考えて、途中で置きました」
考えなかったわけではない。あの夜からの五日間、私は何度もそこへ行き当たって、何度も引き返していた。
私の仕事は、直しだ。
傷んだ一着があって、着る人がいて、その二つのあいだに私が入る。綻びを読んで、当てを入れ、寸法を直す。一年半、それだけをしてきた。
婚礼衣装には、傷んだ一着がない。
着る人はいる。私だ。直すべき元の一着が、どこにもない。
「祖母の形見は」
局長が言った。
「若草色の、あれは」
「あれは、夜会の一着です。丈も袖も違います。作り替えれば、あれはもう、あれではなくなります」
「そうか」
「祖母の一着を潰して、自分の婚礼を仕立てるのは」
私は、そこで言葉を選んだ。選んだのに、うまい言い方が見つからなかった。
「……直しではありません」
局長は何も言わなかった。それから、ひとつだけ言った。
「では、新しく仕立てるのか」
私は答えられなかった。
*
局長が帰ったあと、私は幕の裾に戻った。
五寸を裁ち落として、折り返しを取り、まつる。三十年ぶん踏まれた端を切り落として、上へ詰める。切ったところは、もう誰の目にも触れない。
この幕は、来年も掛かる。再来年も掛かる。そのまた次の春に、誰かが下ろして、裾を見て、また五寸を詰める。
布が足りなくなるまでは、それが続く。
足りなくなったら、そのときは。
私は針を止めて、燭台の火を見た。そのときは、誰かが新しい幕を織るのだろう。
*
翌朝、部屋に上がってきたポレットが、封書を一通差し出した。
「頭あての、お手紙です。あの、宮の外からで」
私は受け取って、差出しを見た。
アシュフォード。
一年半ぶりに見る、自分の家の名だった。
中身は短かった。父の代理人の手で、事務の文だった。伯爵家の屋敷と、祖母が晩年を過ごした市井の家とを、今年のうちに畳む。ついては、残っているものの始末を。
鋏の刃を、そっと閉じる音がした。私の手の中だった。閉じたつもりはなかった。
祖母の家には、まだ、開けていない長持ちがある。
お読みいただきありがとうございます。
三十年ぶん踏まれた幕の裾は、切って上へ詰めれば、また何十年か掛かります。布が足りなくなるまでは。
次話——祖母の家の、長持ちの底。
日取りの決まらない二人の予定表に、少し笑ってしまった方。ブックマーク・評価をいただけると、次の針が進みます。




