第60話 私の衣装は、誰が直すのでしょう
局長は懐から紙を一枚出した。書き付けの束ではなかった。一枚だけだった。
「読め」
私は受け取って灯りに近づけた。宮内府の裁可の写しだった。
『宮に職を有する者、婚姻を理由として職を解くことなし。男女を問わず、これを定む』
私はその一行を三度読んだ。
「……局長」
「慣例だった」
局長はいつもの実務の声で言った。
「宮に職を持つ女が婚姻すると、職を解かれる。書いてある規則ではない。誰かが決めたわけでもない。……ただ、そうなっていた」
「はい」
「書いていないから、誰も変えられなかった。変えるべき条文が、どこにも無いからだ」
局長は膝の上で手を組み直した。
「だから、書いた」
*
私は、紙を持ったまま、しばらく動けなかった。半年、私はこの一つのことばかり考えていた。値表にない仕事は、試験にもない。名簿にない者は、いないことになる。書かれていないものは、理由もなく消せる。
その裏返しを、この人はいま、一枚の紙にして持ってきた。
「書いたものは」
私が言うと、局長が引き取った。
「消すのに、理由が要る」
「これは、いつ通されましたか」
「……先月だ」
「先月」
「総会の、前だ」
私は顔を上げた。
「総会は、通るか分かりませんでした」
「分からなかった」
「規約が変わらなければ、修繕方の沙汰も下りませんでした。私は、部の頭ですらなくなっていたかもしれません」
「かもしれん」
「では、なぜ先に」
局長は少し目を逸らした。この人が目を逸らすのを、私は数えるほどしか見たことがない。
「順番の問題だ」
「順番」
「そなたが職を失ってから言えば、それは慰めになる。……慰めで受けられては、困る」
「通らなかったら、どうなさるおつもりでしたか」
「通るまで、言わんつもりだった」
燭台の芯が、じ、と鳴った。私は紙を裁ち台に置いた。置いた手をそのままにした。この人はいつもこうだ。
査問の日も、包囲の夜も、閉鎖の勧告のときも、宮内府の広間でも。先に道を作って、作り終えてから、何事もなかったような顔で部屋に来る。
そして、こちらが気づくのは、いつも後だ。
「そのうえで、だ」
局長が言った。私はその言い方を知っている。半年前の夜、時計の蓋を閉じたあとに、この人はそう言った。
「隣で、見ていたいと言った」
「……はい」
「見ているだけでは、足りん」
局長は顔を上げた。
「リディア・アシュフォード」
名前が、呼ばれた。四度目だった。
「私と、婚姻してほしい」
*
私は、答える前に、一つだけ確かめてしまった。悪い癖だ。針を持つ人間の癖で、私はどうしても、縫う前に地を確かめる。
「局長。私は、部の頭を続けます」
「知っている。だから、先に書いた」
「城下へ出ることもあります。夜なべもします。……大礼の年は、三月まともに帰れませんでした」
「知っている」
「私の手は、荒れます。淑女の手ではありません」
「そなたの手は」
局長は、そこで一度、言葉を切った。
「私が知っているどの手より、上等だ」
私はうつむいた。うつむいた先の膝の上で、手がうまく畳めていなかった。半年前と、同じだった。
「……はい」
声が、かすれた。
「はい。お受けします」
*
沈黙が、少し長かった。長かったあとで局長が言った。
「そなたは、断る理由を三つ並べてから受けたな」
「地を確かめました」
「なるほど」
「歪んだまま縫うと、あとで必ず引きつりますので」
局長は、めずらしく、声を出して笑った。笑ったせいで燭台の火が少し揺れた。
*
翌朝、部屋に来たポレットが、私の顔を見るなり固まった。
「リディアさま。……なんか、あります」
「何もありません」
「あります。目が」
「目は、昨日から同じ位置にあります」
「そうじゃなくて!」
結局、昼までに全員に知れた。コリンヌが泣き、アネットが盥を引っくり返し、マダムが広間から来て「そんなことだろうと思っておりました」と言った。
ポレットは、しばらく黙っていて、それから小さな声で訊いた。
「あの、……リディアさま、辞めちゃうんですか」
「辞めません」
「ほんとですか」
「書いてもらいました」
私は宮内府の裁可の写しを見せた。ポレットは、それを一字ずつ、指でたどって読んだ。読み終えるのに、ずいぶんかかった。読めたのが分かったのは、洟をすすったからだ。
「……『職を解くことなし』」
「はい」
「書いてあります」
「書いてあります」
*
その日の夕方、私は棚の奥から一着を出した。若草色のドレスだ。断罪の夜に着ていた一着。祖母が直してくれた形見。「みすぼらしい縫い目」と笑われた一着で、大礼の日に、王太后様が「その縫い目も、私は知っています」と仰った一着。
台に広げて燭台を近づけた。大礼で一度着ている。着れば、必ずどこかが減る。裾の折り返しが、少し擦れていた。脇の縫い目が、一か所だけ緩んでいる。
私は糸を選んだ。祖母の糸ではない。祖母の糸は、もうない。庫の——いまは私の棚の、はしたの籠から、いちばん色の近いものを選んだ。
当てを入れるほどではない。緩んだところを掬って留めるだけだ。四半刻で終わる仕事だった。
私はそれを一刻かけて縫った。
*
「次に着る日は、決まっているのか」
いつのまにか、局長が戸口にいた。
「決まっておりません」
「では、なぜ直す」
「決まっていないから、直します」
私は針を運びながら答えた。
「決まってから直すと、間に合わないことがあります。……大礼のときに、私はそれを学びました」
局長はいつもの椅子に座った。私は、脇の縫い目を留め終えて、糸を切った。鋏の音が、軽かった。
ドレスを持ち上げて灯りに透かす。直したところは、分からない。分からないのが、いい仕事だ。
それから私は、そのドレスを膝の上に広げたまま、少し動きを止めた。
「どうした」
「……局長」
「なんだ」
「一つ、困っております」
「言え」
私は若草色の裾に手を置いた。この一着は、祖母が直してくれた。祖母は、もういない。いつか、私は白い一着を着ることになる。
その一着を、誰が仕立てるのか。仕立てたあと、誰が直すのか。
「私の衣装は、誰が直すのでしょう」
*
局長はすぐには答えなかった。答えないまま、裁ち台の上の、私の針箱を見た。祖母の黒檀の針箱。蓋の裏に銀糸の指貫の刺繍がある。
それから、壁の羽目板を見た。褪せた銀の指貫から、糸車、鋏、花、錨、木の葉、糸の通った針。そして、いちばん新しい端の、少し曲がった青い一字。
列は、そこで終わっている。終わっているところに、板の余白がある。
「……さあな」
局長は言った。
「だが、この部屋には、針を持つ者が四人いる」
私は顔を上げた。
「五人です」
「五人か」
「マダムが、また貸しに来ると仰いましたので」
「なるほど」
局長は少し笑った。
「では、当分は困らんな」
*
その夜、私は帳面を開いた。宮廷修繕方、その日の分。品と、寸法と、お代。最後の一行に私はこう書いた。
『若草色の一着 縫い目の留め 銀貨——』
書きかけて私は筆を止めた。値表には、この仕事の名前がある。寸法直しでも、繕いでもない。自分の物を、自分で直す仕事だ。
少し考えて私は空欄のままにした。いつか、名前を付ける。燭台の芯を切って、私は明日の分の糸を、あらかじめ切った。
糸を通す音が、ひとつ。今夜も、いい音がした。
お読みいただきありがとうございます。
「私の衣装は、誰が直すのでしょう」——その一着だけは、まだ誰の手にもありません。
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