第59話 列は、伸びる
三十年ぶんの帳面は、三人がかりで四往復した。ポレットとアネットと私で運んで、コリンヌが部屋で受け取って棚に立てた。狭い部屋が、いよいよ狭くなった。
最後の一冊を運び終えたとき、ゴットフリートは庫の真ん中に立っていた。何もない庫だった。物は全部そこにあるのに、何もないように見えた。
「明日、鍵を渡す」
「はい」
「新しい者は、若い。三十を過ぎたばかりだそうだ」
「そうですか」
「教えることは、書いて渡した。錠の癖と、湿気の来る棚と、鼠の通り道だ」
老人はそこで少し黙った。
「書けることだけを、書いた」
*
その日の夕方、ゴットフリートがお直しの部——いまは宮廷修繕方に来た。いちばん古い巻を持っていた。
最後の頁を開く。名前と、小さな図。糸車。鋏。花。錨。木の葉。いちばん上に、指貫。いちばん下に、糸の通った針。
老人は墨を磨った。磨る手が遅いので、ポレットが横から硯を押さえた。
「ポレット」
名前を呼ばれて、ポレットが背筋を伸ばした。
「は、はい」
「印は、決めたか」
「……まだです」
「決めろ。今日だ」
ポレットは羽目板のほうを見た。いちばん古い端の、褪せた銀糸の指貫。そこから並ぶ、六つの図。そしていちばん新しい端の、私の印。
「あの」
ポレットが言った。
「あたし、図じゃなくていいですか」
*
私はその子の顔を見た。
「字にします」
ポレットはまっすぐ言った。
「あたしの名前の、いちばん最初の一字を刺します」
「なぜですか」
「あたし、ずっと思ってたんです。図って、字が書けない人が、名前の代わりに使うものなんだろうって」
私は何も言わなかった。
「違いますよね。糸車の人も、鋏の人も、たぶん字は書けたと思います。……でも、あたしはそう思ってました。ここに来た年は、字が一つも読めなかったので」
ポレットは自分の右手を見た。糸を扱う指だ。硬くなっているところが、私と同じ位置にある。
「だから、あたしは、字にします。書けるようになったので」
ゴットフリートは筆を止めなかった。止めずにこう言った。
「印は、選ぶものだ」
*
その晩、ポレットは羽目板の前で、一刻近く座っていた。私は口を出さなかった。刺す位置はいちばん新しい端だ。私の印の、すぐ隣。列がそこで終わっているところに、板の余白がある。
ポレットは青い絹糸を選んだ。私が使ったのと同じ色だ。
「同じ色でいいんですか」
「同じでも、違っても、構いません」
「じゃあ、同じにします」
針を持ってポレットは羽目板に向かった。布地は古い。三十年より前に張られたもので、糸を通すたびに、ぱち、と小さな音がする。
一画目。二画目。字は、曲がった。三度、やり直した。三度目も曲がった。
「曲がります」
「曲がりますね」
「まっすぐにできません」
「では、曲がったままにしましょう」
ポレットはこちらを見上げた。
「いいんですか」
「あなたの字です」
*
できあがった一字を、私は燭台を近づけて見た。小さい。親指の先ほどだ。青い糸で少し曲がっている。
その左に私の『糸の通った針』がある。その左に、木の葉。錨。花。鋏。糸車。そして、いちばん左の端に、褪せた銀糸の指貫。
列は、そこから、ここまで、一続きだった。ポレットはしばらく壁を見ていた。見ながら、袖で目を拭った。拭ってまた見た。
「リディアさま」
「はい」
「あたしの印、いちばん端です」
「はい」
「いちばん端ってことは」
その子は、自分の刺した字の、右側の余白を指した。
「まだ、続きがあるってことですよね」
*
ゴットフリートは、その夜、控えのいちばん古い巻に、最後の一行を書いた。名前と、その横に図。
図のところに、老人はポレットの一字を写した。写した字も少し曲がった。
「筆が言うことを聞かん」
「そのままで、よろしいのではないでしょうか」
「そうだな」
老人は筆を置いて、帳面をポレットのほうへ押した。
「ポレット」
「はい」
「わしの前の庫番が、これを書いた。そのまた前の庫番が書いた。……わしも書いた」
ポレットは帳面を両手で受けた。
「次は、お前だ」
*
翌朝、ゴットフリートは城を出た。荷は思っていたより少なかった。背負い袋が一つと、包みが一つ。
見送りに出たのは、私とポレットとコリンヌとアネット、それからマダム・ジョゼットと、局長だった。近衛の詰所からギヨムが顔を出して、敬礼のような、そうでないようなことをした。
城下に姪の家があるのだという。
「達者でな」
それだけ言って老人は歩き出した。三歩で止まった。振り向かずにこう言った。
「使う手が来るまで置いておくのが、庫番の仕事だ」
「はい」
「わしの三十年は、それだ」
ポレットが、何か言おうとして、声にならなかった。老人はそのまま門を出ていった。
*
部屋へ戻ると、棚が三十年ぶんの帳面で埋まっていた。私はその背表紙を端から端まで眺めた。
三十年、誰にも頼まれずに書かれた記録だ。宮の台帳ではない。宮が買った紙でもない。それが、この半年で、二度、人を助けた。
値のない仕事に、値を付けた。名のない列に、名前が並んだ。どちらも、誰かがずっと前から、静かに続けていたことの上に載っている。
*
その夜、局長が来た。私は書き付けの束を受け取ろうとして、手を止めた。束が、なかった。この人が手ぶらでこの部屋に来たのは、私の記憶にあるかぎり、一度もない。
「……局長」
「なんだ」
「今日は、何もお持ちでないのですね」
局長はいつもの椅子に座った。座って膝の上で手を組んだ。組んだ手をしばらく見ていた。
「ある」
「え」
「持ってきたものは、ある」
お読みいただきありがとうございます。
「いちばん端ってことは、まだ、続きがあるってことですよね」
次話——第二部、最終話。手ぶらの局長が、何を持ってきたのか。
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