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第6話 消えた織

 窓の光がまだ白いうちに、ポレットの稽古から一日が始まる。


「すー、とん。すー、とん。……リディアさま、今日のは、いい針目じゃないですか?」


「昨日よりは。針は布に押させて。手で引くと、目が泳ぎます」


「押させて……はい!」


 当て布の稽古の隣には、石盤が置いてある。針を十回運んだら、文字を一つ。それが約束だ。今朝の字は「ぬの」の「ぬ」で、ポレットはさっきから、ぬ、の結びのところで糸を絡ませたような顔をしている。


 私は裁ち台に、大礼の間の垂れ幕の見取り図を広げた。式典局からの、初めての指名仕事。傷んだ箇所は数えて四十一。図に写して、直す順番も決めてある。


「大礼の間って、あたし、掃除で一度だけ入ったことあります。天井が高くて、声がわんわん響くんです。あそこの垂れ幕を、リディアさまが直すんですねえ。……えへへ。なんだか、あたしまで偉くなったみたいで」


「あなたの持ち場は当て布です。手が止まっています」


「はいっ」


 その要の材料が、昨日、届いたのだった。


 金糸入りの緞子——固く艶のある、紋織りの絹だ。一反。値打ちは金貨六枚を下らない。物品庫で受け取りの検分をして、私は帳面に控えを書いた。


『式典局納入。金糸緞子一反。耳に朱の房糸。右の耳に織り傷一寸。巻き芯に式典局の焼き印』


 検分のとき、ゴットフリートは巻きを解いて、耳から耳まで手燭で照らしてくれた。織り傷は仕立てに障らない場所にある。それでも私は控えに書いた。傷は、疵ではない。その反物が、ほかのどの反物とも違う一本だという、しるしでもあるからだ。


 運んだのはポレットだ。「お姫さまを運んでるみたい」と言いながら両腕で抱えて、生地棚の一番上に寝かせた。夕刻、私が部屋に鍵をかけて帰った。


 朝。稽古を終えて、棚を開けた。


 ——ない。


 棚の上にも、布の山の陰にも、裁ち台の下にもない。緞子一反は、女の子一人では抱えるのがやっとの重さと嵩がある。紛れるような大きさの物ではない。


「リディアさま……あたし、ちゃんと、ここに置きました。この段に」


「ええ。私も見ていました」


 ポレットと二人で、部屋中を検めた。布の山を一枚ずつ返し、衣桁の陰を覗き、入るはずのない長持の底まで見た。——ない。扉の錠に、こじ開けた傷はない。合鍵は、衣装室の管理棚にあるはずだった。


 それから物品庫へ走った。ゴットフリートは無言で払い出しの台帳を開き、昨日の行を指した。金糸緞子一反、払い出し先、お直し部屋。受け取り、済み。庫は何も間違えていない。消えたのは、私の部屋からだ。


 私は届け出のために、縫製の広間へ向かった。この足の速さが正しかったのかどうか、夕方には分からなくなっていた。


    *


 マダム・ジョゼットの眉は、報告の途中から動かなくなった。代わりに口を開いたのは、マダムの斜め後ろに立っていた男だった。


「これはこれは。……また、ですか」


 衣装室次席、ロベール。三十半ば、撫でつけた髪に絹の胴着。資材と管理簿を預かる人で、丁寧なお辞儀と丁寧な言葉遣いをする。その丁寧さはいつも少しだけ、匙に残った蜜のように粘つく。


「また、と仰いますと」


「ご存じない? ここ半年、衣装室では紛失が続いております。絹が二反、銀糸が一箱、式典用の宝飾ボタンが三十粒。……管理簿を預かる身として、心を痛めておりましてね」


 ロベールは管理簿を胸に抱え直した。


「そのたびに出入りの記録を検めるのですが、不思議なことに。どの品の記録にも、最後に同じ名前が残っているのですよ」


 嫌な間の取り方だった。


「物品庫の払い出し、届け物、運び役。——ポレット。おまえの名だ」


「あ……あたしは、雑用係だから、運ぶのが、仕事で」


「そう、雑用係。どこにでも出入りができて、何を運んでいても誰も怪しまない。……都合のいい立場だ」


 ポレットの頬から色が落ちて、そばかすだけが残った。


「次席様。ポレットは昨日、私と一緒に緞子を納めました。棚に置くところまで、私が見ています」


「ええ、ええ、そうでしょうとも。置いたものを夜のうちに持ち出すなら、置くところは幾らでも人に見せられる」


「彼女は部屋の鍵を持っていません」


「鍵など」ロベールは初めて笑った。「雑用係は、どの部屋の掃除にも入ります。錠前の型を取る暇くらい、幾らでもある」


 言い返す言葉は、あった。けれどそのどれもが、推測に推測で返されるたぐいの言葉だった。事実だけが欲しい。今の私の手の中に、事実は少なすぎる。


「それに」ロベールは、わざとらしく声を沈めた。「こともあろうに、式典局納入の品です。お直し部屋は、初めての指名仕事の材料を、届いたその夜に失くした。……局長どのが、どう思われますかな」


 これは事実だった。事実だから、刺さった。


「マダム・ジョゼット」ロベールは声を改めた。「もはや衣装室の内々の紛失では済みません。手癖の悪い者を庇えば、衣装室ごと疑われましょう。——見習いの雑用係が犯人で決まりだ。沙汰を待つまでもない。追放処分を、筆頭から上申なさいませ」


「盗ってません……あたし、盗ってません……!」


 ポレットの声が裏返る。マダムは長いあいだ黙って、それから、ようやく言った。


「……処分は、調べが済んでからです。式典局納入の品なら、いずれ宮内府の監査も入りましょう。それまでこの子は仕事から外し、お直し部屋の預かりとします。——不服ですか、次席」


「いいえ、まさか。手順は大事でございます」


 ロベールは深々と頭を下げた。下げた顔がどんな顔をしていたのかは、誰にも見えなかった。


    *


 お直し部屋に戻ると、ポレットは裁ち台の脚のところに座り込んで、動かなくなった。


 私は繕い籠から、預かり物の小姓のお仕着せを取った。肘が擦り切れている。丸く切った当て布を裏にあてる——四角い当て布は角から剥がれるが、丸は力の逃げ場がある——そして細かい針目で、外から叩くように留めていく。


 手を動かすと、頭が並んでいく。


 絹が二反。銀糸が一箱。ボタンが三十粒。そして緞子が一反。自分で使う当てもなく盗む数ではない。どこかに、これを金に換える口がある。口があるなら、糸がある。糸があるなら——たどれる。


 当て布を留め終えてから、私は帳面の新しい頁に、今日のことを書いた。品目、消えた刻限、錠の様子、居合わせた人、言われた言葉。悔しさは書かない。帳面には、事実だけを書く決まりだから。


「……リディアさま。あたし、また捨てられるんでしょうか」


「いいえ」


 私は帳面を閉じて、稽古の布と針を、その手に載せた。


「今日の分が、まだです。あと十針」


 ポレットは針を受け取って、一針目で手を滑らせた。針が床に落ちて、小さな、硬い音を立てる。


 私は針を拾い、糸ごと、その手に持ち直させた。大丈夫。針は落としても、拾えばまた縫える。


 二度目の一針が、震えながら布を潜っていく。きゅ、と糸の鳴る音がした。


お読みいただきありがとうございます。

消えた一反と、いやな感じの次席の登場でした。谷の回です。


次話、リディアの帳面が静かに動き出します。数字は嘘をつきますが、記録は裏切りません。


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