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第5話 それは、まだ使える

 宮内府式典局の執務室は、紙でできた要塞のようだった。


 壁という壁が書類棚で、机の上には帳簿の山。ただし、山という言葉は正しくないかもしれない。どの束も角がきっちり揃えられて、崩れる気配のない積まれ方をしていた。


 約束の刻限より早く着いて、廊下で待った。扉の中からは、低い声と、言い訳めいた高い声が交互に漏れてくる。やがて役人がひとり、絞った布のような顔で出てきて、私に順番を譲った。


「次。衣装室、お直し部屋」


 部屋に入る。


「……座れ」


 机の向こうの人は、顔も上げずに言った。


 アルヴィン・グレイル子爵。式典局長。歳は聞いていた通りなら二十六。癖のない黒髪に、上等だが仕立ての古い上着。その袖口に、当て布の直しがある——職人の手ではない、不揃いな針目の。


 観察はそこで打ち切られた。灰色の目が、帳簿から私に移ったからだ。


「単刀直入に言う。そなたの請求書は、おかしい」


 来た、と思った。私は膝の上で手を重ねた。


「この三週間でお直し部屋が受けた仕事、十七件。請求の総額、銀貨四十一枚と銅貨十五枚」


 局長は一枚の写しを机に滑らせた。メルヴィル夫人の礼装の分だった。


「礼装の寸法直し、意匠の足し、一晩の急ぎ仕事。これを新調で賄えば金貨十二枚は下らない。そなたの請求は、銀貨三枚」


「はい」


「——安すぎる」


 ……はい?


 背筋に入れていた力が、行き場をなくした。取り潰しの宣告を覚悟していた耳に、その言葉はうまく入ってこなかった。


「あの。安い、から、いけないのですか」


「当然だ」


 局長は初めて、まっすぐに私を見た。


「安すぎる請求は、三つのものを損なう。第一に、そなたの仕事の値打ち。銀貨三枚と書けば、王宮の帳簿の上で、あの仕事は永遠に銀貨三枚の仕事になる」


「第二に、帳簿の信用。相場より不当に安い数字は、高い数字と同じだけ疑わしい。差額がどこかへ流れている、と読む者が必ず出る。私なら、まずそう読む」


「第三に——そなたの後に来る者だ。そなたが安く請けた前例は、次のお直し係の首を絞める。自分一人が慎ましいつもりで、職ごと安く売っているのだと知れ」


 一句ずつ、反論の余地を測ってみたけれど、なかった。控えめに書いた数字の列が昨夜、頼りなく見えた理由を、この人は三つとも言葉にしてしまった。


 銀貨三枚と書いたとき、私は確かに、安ければ許される気でいたのだ。祖母がいたら、たぶんあの声で言った。針の値打ちを、自分の手で下げるんじゃないよ、と。


「正当な対価を付けろ。予算とは、そのためにある」


「……局長は、予算をお切りになる方だと、うかがっていましたが」


「切るのは無駄だ。値打ちのある仕事から切ったことは一度もない」


 局長は帳簿を一冊引き寄せ、開いて見せた。衣装室の年間の費えだった。


「見ろ。王宮の新調の費えは、この五年で倍になった。布の値も職人の手間も、倍にはなっていないのにだ。誰かが膨らませている、と私は見ている」


「……それを、お調べに」


「調べる、とは言っていない」局長は帳簿を閉じた。「言った、と言われると面倒でな。数字の話をしただけだ」


 用心深い言い方だった。この方の相手にしている何かは、新参の私が思うより、ずっと大きいのかもしれなかった。


「そこへ来て、そなたの請求書だ」


 指の先が、私の帳面の写しを叩いた。


「品目、傷み、施した始末、使った材料。全部書いてある。私はこの局に来て四年になるが、読む価値のある請求書を初めて見た」


 褒められているのだと気づくのに、また少しかかった。この人の言葉には、飾りの糸が一本もない。


「今後、お直し部屋の請求は式典局を通せ。書式は追って届けさせる。値付けは私が査定する。——不服か」


「いいえ。……ありがとう、ございます」


「礼を言われる筋ではない。私は数字を合わせるだけだ。針を運ぶのは、そなただろう」


 退出の間際、目の端に、それは映った。


 書類の要塞の隅、小箱の上に、古い懐中時計が一つ。蓋が開いたまま、針は止まっていた。持ち手の組紐は擦り切れて、芯が覗いている。この部屋で唯一、角の揃っていない物だった。


 銀側の、竜頭——ねじを巻くつまみ——の摩り減った時計だった。動いてもいない、金にもならない、この部屋の帳簿では説明のつかない物。


 視線に、気づかれた。私は目を伏せたけれど、遅かった。人の縫い目を勝手に読まないのが作法なのに、目が先に動いていた。


「……父の物だ」


 局長は、それだけ言った。それから、少しの間を置いて、なぜか言い足した。


「止まっているが、捨てはしない。それは、まだ使える。——直せる者を、探していないだけだ」


 探して「いない」。妙な言い方をする人だと思った。


    *


 翌日、お直し部屋に、一通の発注書が届いた。


『発注元、宮内府式典局。宛先、王宮衣装室お直し部屋。品目、大礼の間の垂れ幕の補修一式』


 宛先の欄に、部屋の名前が正式に書かれた、初めての書類だった。金額の欄には、私なら気後れして書けなかった数字が、几帳面な字で先に埋めてある。


「リディアさま、これ、指名ですよ! 指名! 宮内府さまからの!」


 ポレットが発注書を掲げて踊っている。私は笑って、それから、部屋の隅の衣桁に目をやった。


 夕べ、屋敷から届いた荷を解いて、あのドレスを掛けたのだ。断罪の夜に着ていた、袖に祖母の直しのある、あのドレス。


 みすぼらしいと笑われた縫い目は、燭台の明かりの下で、静かに整っていた。


 私の針は、恥ずかしいものじゃない。そう言ってくれる人が、この王宮のどこかにいる。名前は知られていなくても、仕事は見てもらえる。


 なら、ここでやっていける。


 私は新しい糸を針に通した。糸が針の耳を抜ける、小さな音がした。


お読みいただきありがとうございます。

冷徹の吝嗇卿、登場でした。お直し部屋、初めての「指名」です。


——ですがこの翌朝、お直し部屋の生地棚から、上等の織が一反、消えます。


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