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第4話 指名のない指名

 最初に気づいたのは、ポレットだった。


「リディアさま! 扉! 扉の外に、籠が置いてあります!」


 繕い物の入った籠が一つ、誰の名札もなく、お直し部屋の扉の前に置かれていた。中には年配の女官の喪服が一着と、走り書きの紙が一枚。


『お直し部屋に。お願いできますか』


 宛名は、それだけだった。私の名前を、この王宮のほとんど誰も知らない。それでも仕事は、部屋の名前を頼って届く。


「指名のない、指名ですね」


 ポレットが妙にうまいことを言った。


    *


 喪服は、肩から胸にかけて、点々と白茶けた染みが散っていた。蝋の染みだ。通夜の晩、灯りを持って立ち続けた人の染み方だった。


「これ、落ちるんですか? 洗っても落ちなかったから捨てるところだったって、届けにきた子が」


「擦ったのでしょうね。蝋は擦ると布に沈みます。——温めて、浮かせて、移すんです」


 染みの下に吸い取りの当て布を敷き、上から布を当てて、温めた鏝をそっと載せる。溶けた蝋が浮いて、当て布の方へ移っていく。急がず、一点ずつ。


「わ……。消えてく」


「布から出ていっていただくだけ。傷めたら負けです」


 仕上げに黒の染めを一刷毛、陰になる部分へ含ませて、染みの記憶ごと消す。畳み直した喪服は、届いた時より深い黒になった。


 夕刻に取りに来た女官は、喪服を胸に当てて、しばらく黙っていた。


「……母の形見なんです。私、これを着て、母を送ったので」


「良い絹です。あと二十年は、お側にいられます」


 女官は何度も頭を下げて帰っていった。翌朝、扉の前には籠が二つになっていた。


    *


 次の日は三つ、その次の日は五つ。


 近衛の式典外套は、肩章の重みで縫い目ごと裂けていた。表から繕うだけでは、また同じところが裂ける。裏に力布——力のかかる場所を裏から支える布——を仕込んで、重みの逃げ道を作った。


「なるほどなあ。道理でうちの隊のは、皆おんなじ所が破れるわけだ」


 取りに来た近衛の隊士は、外套を検分して感心し、それから声を落とした。


「あんた、あれだろ。噂の……いや、やめとこう。仕事に貴賤なし、縫い目に貴賤なしだ」


 言い直しかたが不器用で、少し笑ってしまった。悪意のない人らしかった。


「いい言葉ですね」


「隊長の受け売りだ」隊士は外套を羽織って、腕を二、三度振った。「軽くなった気までするな。……待てよ。破れにくくなったってことは、俺はこれから、もっと荷を担がされるのか」


「力布は、無理の言い訳には使えませんよ」


「違いない」


 仕事のたび、私は帳面に記録をつけた。品目、傷みの具合、施した始末、使った糸と布、そして請求の額。


 帳面のつけ方は、祖母の見様見真似だ。祖母は言っていた。「仕事は忘れていいんだよ。帳面が覚えていてくれるから」。忘れていい、と言われると、かえって忘れないものだけれど。


 女官の喪服、銀貨一枚。近衛の外套、銀貨一枚と銅貨五枚。メルヴィル夫人の礼装の直しは、さすがに大仕事だったから、銀貨三枚。


「リディアさま、それ、安くないですか? 礼装の新調って、金貨が十枚も二十枚も飛ぶって聞きますけど」


「直しですから」


 直しの相場など、この王宮にはない。傷んだ衣装は新調されるものだからだ。前例のない請求書に高い額を書けば、お直し部屋はきっと続かない。だから控えめに、控えめに、と書いてきた。


 ——この考えが甘かったことを、私はまもなく思い知ることになる。


    *


 その日の仕事仕舞い、ポレットが裁ち台の端で、もじもじしていた。


「あの、リディアさま。あたし……針、持ってみたいです」


「どうぞ」


「え、いいんですか!? あたし雑用係ですよ? 字も読めないんですよ?」


「針に、字は要りません」


 端切れと針を渡すと、ポレットは息を止めて、一針、二針、と進めた。形はまだ、それは針目とは呼べない何かだ。けれど。


「……ポレット。今、私の運針を思い出しながら刺しました?」


「はい! リディアさまの手、こう、すーっ、とん、って動くから。目をつぶると見えるんです。ゆうべの、夫人のドレスの銀糸のときは、こう、くるん、すー、とん、で」


 手つきの真似が、驚くほど正確だった。


 読み書きはできない。けれどこの子の目と手は、一度見た針の動きを覚えている。それがどれほど得がたいことか、本人はまるで気づいていない。


「明日から、毎日一針分、教えます」


「ほんとですか!」


「そのかわり、並行して文字も教えます。針子の仕事の半分は、記録ですから」


「うっ。……はい」


    *


 その返事と入れ違いに、扉が鳴った。


 立っていたのは宮内府の使いで、差し出された書状には、見慣れない印章が捺されていた。


『衣装室お直し部屋の請求書一式につき、査問を行う。明朝、宮内府式典局まで出頭されたし。——式典局長 アルヴィン・グレイル』


「さもん」ポレットが背伸びして書状を覗き込み、それから飛び上がった。「式典局長って、あの『冷徹の吝嗇卿』ですよ! 予算を切られて、部署ごとなくなったところもあるって……! リディアさま、お直し部屋、取り潰されちゃうんですか!?」


「さあ。……請求書に、嘘は書いていませんけれど」


 私は帳面を引き寄せて、最初の頁から読み返した。品目、始末、額。どこにも恥じるところはない、はずだ。


 それなのに、なぜだろう。控えめに書いたはずの数字の列が、今夜はなんだか、頼りなく見えた。


 帳面を閉じる。ぱたん、と乾いた音がした。


お読みいただきありがとうございます。

お直し部屋、繁盛しはじめました。そして不穏な呼び出しです。


次話、「冷徹の吝嗇卿」と対面。査問の場で告げられたのは、予想もしない一言でした。


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