第3話 一晩の青
三日目の夕刻、お直し部屋の扉を、マダム・ジョゼットが自分で叩いた。
用のない限り立ち入るなと言った当人が、扉口に立っている。それだけで、ただごとではないと分かった。
「……先に言っておきますが、私はこの話に反対しました」
マダムの後ろから、外套のフードを目深に被った婦人が進み出た。フードの下の顔色は、蝋のように白い。
「メルヴィル伯爵夫人です。明朝、王太后マルグリット様の引見を賜ることになりました。急な、思し召しで」
「光栄なお話かと」
「ええ。ですが——礼装が、合わなくなっているのです」
夫人が抱えていた包みを、私は裁ち台に広げた。
深い青のドレスだった。上等の絹に、銀糸の控えめな刺繍。三年か四年前の仕立てだが、手入れは行き届いている。大切に着られてきた一着だ。
「新調は間に合わないのですか」
「明朝ですよ」マダムが短く言った。「縫製の広間が総出でも、礼装は十日かかります。それに——」
「それに、大勢の方に、触れられたくないのです」
夫人が、初めて自分から口を開いた。固い声だった。
「……少し、太っただけなの。ただ、それだけなのだけれど」
私は「失礼します」と断って、夫人に仮着せをした。ドレスを羽織っていただき、背中の留め具を、留まるところまで留める。
胸元と、胴回り。指二本ぶん、足りない。
「……直るのかしら。いえ、詰めるなり足すなりは、できるのでしょうけど。分からないように、だなんて、虫のいい話だと分かっているの。でも、明日の御前で、もし」
「奥様」
マダムが短く窘めた。夫人の指先は、袖口を強く握っていた。その握り方で、もう一つ分かった。この方は怖いのだ。体の変わりようをどうこうより、明日の引見に障ることが。
それだけなら、よくある話だ。けれど。
留め具に触れる私の指が背中に近づくたび、夫人の息が浅くなる。締め付けを、体が拒んでいる。腰回りの張りに対して、腕も肩も、痩せているくらいなのに。
——胴回りだけ、布が急いでいる。
「奥様。一つだけ、うかがいます」
私は夫人の顔ではなく、縫い目を見たまま尋ねた。
「このドレス、三月のちにも、お召しになりたいですか」
沈黙があった。マダムが怪訝な顔をする。夫人は、フードの奥からじっと私を見て——それから、消え入りそうな声で言った。
「……ええ。三月のちも。……できれば、その先も」
「かしこまりました。事情は、うかがいません。寸法のことしか、うかがいませんので」
夫人の目に、みるみる水の膜が張った。それで、私の察したことは間違っていないと分かった。おそらくは、まだ誰にも言えない。言えない理由が、家にはあるのだろう。
「明朝までに、仕上げます」
「……できるの? 一晩で」マダムの声が尖る。「礼装ですよ。王太后様の御前に出る」
「幸い、このドレスの仕立てはとても丁寧です。丁寧に仕立てられた服は、丁寧にほどけます」
*
夜の仕事は、ほどくことから始まった。
両の脇線——体の横を通る縫い目を、糸切り一本で慎重に開いていく。ポレットが燭台を掲げて、手元を照らしてくれた。仕事を聞きつけて、勝手に残ってくれたのだ。
「リディアさま、ほどいちゃって、大丈夫なんですか」
「大丈夫。布は覚えています。どう縫われていたか、折り目がぜんぶ覚えている」
開いた縫い代に、へらで折り目の筋を入れ直す。もとの縫い目の跡は、燭台の光に斜めにかざすと、点の並んだ影になって見える。仕立てた針子の丁寧な仕事が、そのまま道しるべになってくれる。良い仕事は、直す者を助ける。
足りないのは、指二本ぶんの余裕。それを、どこから持ってくるか。
答えは、裾にある。礼装の裾には、折り返した布がたっぷり隠れている。そこから共布——同じ生地の布を細長く切り出して、開いた脇線に、まちとして挿し込む。まちというのは、動きと余裕を作るための挿し布のことだ。
「継ぎ足したって、分かっちゃいません?」
「分かるでしょうね、このままでは」
だから、挿した布との境目に沿って、銀糸で刺繍を足す。もともと裾にある蔓草の意匠を、脇線に沿って立ち上らせる。継ぎ目を隠すのではなく、初めからそういう意匠だったことにする。
「リディアさま、蔓のくるんって巻くところ、どうやるんですか」
「糸を浮かせて、留めて、また浮かせる。布の上に、糸で線を描くのと同じです」
「わあ……伸びてく。生きてるみたい」
蔓は、継ぎ目の上を渡るたびに、一枚ずつ葉を開く。目の行きやすい場所に、目の留まる物を置く。人の目は、美しい物のすぐ隣にある継ぎ目を、見ないものだから。
そして内側には、絹の紐をひと組。まちの裏に通して、引けば締まり、緩めれば開くように。これから体が変わっていっても——三月のちも、その先も、このドレスが夫人と一緒にいられるように。
燭台の蝋が、二本目に変わる。
針を進めながら、私は祖母の手を思い出していた。夜なべ仕事の祖母の針は、朝が近づいても速さが変わらなかった。慌てる針は、結局遠回りだよ、リディア。
ポレットは三本目の蝋燭の途中で、布の山にもたれて眠ってしまった。私は自分の外套を掛けて、続きをした。針の通る音と、遠くの夜番の靴音のほかは、何も聞こえない夜だった。
窓の外が藍色に変わり、灰色に変わり、やがて白くなった。
最後の糸を留めて、小鋏で切る。ちん、と澄んだ音がした。
朝の光の中で、青いドレスは、昨日より深い色をして立っていた。
*
朝一番に検分に来たマダム・ジョゼットは、ドレスを表から裏から検めて、脇線の刺繍の上で長いあいだ手を止めた。
「……継ぎ目を、隠さなかったのね」
「隠すと、隠した物になります。意匠にすれば、初めからあった物になりますので」
マダムは何か言いかけて、やめた。それから一言だけ残して、部屋を出ていった。
「——お運びなさい。時間です」
夫人が迎えの支度で袖を通した時、その顔に浮かんだものを、私はたぶん忘れない。
息を、吸って、吐く。深く。もう一度。
「……苦しく、ないわ」
「腰の内側に紐がございます。侍女の方に、朝ごとに加減を」
夫人は鏡の中の自分を見て、それから鏡越しに私を見た。
「あなた、どこまで気づいて——いえ」
夫人は言い直した。
「寸法のことしか、聞かないのだったわね」
「はい。寸法のことしか」
夫人は笑って、少しだけ泣いた。
*
その日の昼下がり、メルヴィル家の侍女が、礼の菓子を届けに来て教えてくれた。
引見は恙なく済んだこと。夫人の所作を、王太后様がたいそう褒めたこと。そして帰り際、王太后様がドレスの裾に目を留めて、こう尋ねたこと。
「見事な仕立てね。——誰の手?」
夫人は、こう答えたそうだ。
「衣装室の、お直し部屋の者、としか存じません」
名前は、伝わらない。それでいい、と思う。
私は裁ち台の上の繕い籠を引き寄せて、次の一着を広げた。糸が布を潜る、小さな音がする。
お直し部屋の朝は、今日も布の山から始まる。
お読みいただきありがとうございます。
一晩の直しの話でした。このお話は毎回、こんなふうに「一着」を直していきます。
次話、扉の前に、依頼の札が並びはじめます。——名前は知られていないのに。
続きが気になりましたら、ブックマーク・評価で応援いただけると励みになります。




