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第2話 お直し部屋の主になる

 王宮衣装室の縫製の広間は、光でできているような場所だった。


 高い窓から冬の陽が落ち、何十台もの裁ち台の上で、白い絹が波のように光っている。針子たちの手が一斉に動いて、糸の擦れる音が潮騒のように部屋を満たしていた。


 その手が、私が通ると、止まる。


「……あの方でしょう。ほら、夜会で」


「殿下に、針子にでもなれって言われた……」


 ひそめた声は、ひそめた声のまま届く。私は目礼だけをして、広間を横切った。


「立ち止まらないでちょうだい。仕事の邪魔です」


 先を歩くのは、筆頭衣装係のマダム・ジョゼット。銀灰色の髪をきっちりと結い上げた、背筋のまっすぐな人だ。


「言っておきますけれど、お直し部屋はあなた一人。前任は半年前に辞めて、以来ずっと空いていました。仕事は——来れば、の話ですけどね」


「来ない、のですか」


「王宮の衣装は、傷む前に新調されるものです」


 マダムは廊下の突き当たりで足を止め、古びた扉を顎で示した。


「縫製の広間には、用のない限り立ち入らないように。以上です」


 足音が遠ざかってから、私は扉を押した。


 埃の匂いがした。


 北向きの小窓が一つ。古い裁ち台が一つ。燭台が二本。そして部屋の半分を埋める、布の山。破れた式典幕、ほつれた女官服、ボタンの取れた外套——直されるのを待ったまま、忘れられた物たち。


 誰も来ない部屋、というのは本当らしかった。


 私は外套を脱いで、袖をまくった。窓を開け、埃を払い、裁ち台を拭く。半日かけて布の山を種類ごとに分け直したところで、扉が勢いよく開いた。


「わあっ、ほんとに人がいる!」


 転がり込んできたのは、そばかすの浮いた小さな女の子だった。抱えた繕い物の籠が、腕の中で傾いている。


「あたし、ポレット! 衣装室の雑用係です! 籠を置いてこいって言われて、でもお直し部屋って幽霊が出るって皆が言うから、覚悟して来たんですけど……あなた、幽霊じゃないですよね?」


「昨日までは違ったと思います。リディアです」


「リディアさま! ここに住むんですか? 一人で? こんな寒い部屋に?」


「住みはしません。通いです」


「よかった! あ、でも安心してください。この部屋、壁の向こうがすぐ物品庫で、庫の焚き口に火が入る日は、ちょっとだけあったかいんです。あと屋根裏に猫がいます。灰色の、ふてぶてしいの」


「……詳しいのですね」


「雑用係は、お城の隙間のことなら何でも知ってるんです!」


 まくし立てながら籠を降ろした拍子に、彼女の前掛けの裾が裁ち台の角に引っ掛かって、びっ、と音を立てた。


 ポレットの顔から、血の気が引いた。


「……どうしよう。これ、支給品なのに。マダムに叱られる。あたし、今月もうお給金の前借りが」


「貸してごらんなさい」


 私は針箱を開けた。黒檀の蓋が、ことりと鳴る。


 道具は、今朝並べた通りに収まっている。飴色に使い込まれた木のへら——布の縫い代に折り目をつける道具だ。太さの違う針が七本。革の指貫と、真鍮の指貫。糸巻きには、よく使う色だけを巻いてある。どれも古いけれど、手入れだけは欠かしたことがない。


 裂け目は縦に二寸。布目に沿っているから、始末はしやすい。当て布——裏から同じ色の布を当てて補強する——をして、表からは細かい針目で叩くように留めていく。


 ポレットは、私の手元に顔を近づけたまま動かなくなった。


「……針目が、ぜんぶ同じ大きさ」


「祖母の仕込みですから」


「すごい。破れたところ、どこだったか分かんなくなっちゃった」


 できあがった前掛けを胸に抱えて、ポレットはくるりと回った。それから、思い出したように付け加えた。


「あのね、リディアさま。糸とか布とか要るなら、物品庫のゴットフリートさんのとこですよ。怖いおじいさんですけど」


    *


 物品庫の老人は、噂にたがわず無愛想だった。


 白い眉の下から私を一瞥して、何も言わない。私が「お直し部屋の者です。木綿の糸と、当て布用の端切れを」と告げると、黙って奥へ消え、黙って必要な物を台に置いた。


 台帳に品名を記す手つきだけが、驚くほど丁寧だった。行の高さまで揃った、定規のような字。


「……ゴットフリートさん。お直し部屋には、半年も人がいなかったと聞きました。この繕い物の山は、その間の」


「三年分だ」


 それだけ言って、老人は台帳を閉じた。三年。半年どころではない。誰も直さず、誰も捨てる決断もせず、ただ積まれていった三年分。


 台を離れかけたとき、老人が無言で、糸の横に小さなかけらを一つ足した。蜜蝋だった。糸に引いて使うと、絡みにくくなる。針を持つ者の使う品だ。


 頼んでいない物を、頼む前に。私が礼を言うと、老人はもう背を向けていた。


 部屋に戻って、私は燭台に火を入れた。夜までかけて、山の一番上の式典幕から始めることに決めた。


 その支度の途中だった。裁ち台の脇の壁——古い羽目板を布で拭いていて、指先が小さな凹凸に触れた。


 刺繍だった。


 板に張られた古い布地に、親指の先ほどの小さな印が、一列に並んで縫い込まれている。糸車の図案、鋏の図案、花の図案。一つひとつ、手も年代も違う。


「歴代の、お直し係の署名だ」


 振り返ると、扉口にゴットフリートが立っていた。頼んだ端切れの残りを、無言で裁ち台に置く。


「この部屋で勤め上げた者だけが、去り際に一つ、刺していく。……そういう決まりだった。昔はな」


「昔は」


 老人はそれには答えず、部屋を出て行った。


 私は燭台を近づけて、印の列の一番端——一番古く、糸の色が一番褪せたところを照らした。


 銀糸で刺された、小さな小さな、指貫の図案。


 ……どこかで、見た気がする。


 私は針箱の蓋を裏返した。蓋の裏地の隅に、祖母が刺した小さな飾りがある。物心ついた時からそこにあって、気に留めたこともなかった、銀糸の指貫。


 壁の印と、同じ図案だった。


 偶然だろうか。祖母は市井の針子で、王宮に上がったことなど、一度も——一度も、あっただろうか。私は祖母の昔を、どれだけ知っているだろう。


 窓の外で、日が暮れていく。


 私は考えるのをやめて、三年分の山の一番上の布を、裁ち台に広げた。ぱん、と埃の弾ける音がした。


 お直し部屋の主に、今日からは私がなる。


お読みいただきありがとうございます。

お直し部屋、住人が増えました(ポレット十四歳、体温担当です)。


次話、最初の大仕事が飛び込みます。「明日の朝までに、どうしても」——一晩だけの、時間との勝負です。


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