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第1話 針子にでもなれば

婚約破棄された令嬢が、王宮衣装室の片隅で、捨てられるはずのドレスを直していく話です。

ざまぁは静かに、じんわり効いてくるタイプ。針は人を刺しません。嘘だけをほどきます。

 針を三度、布に潜らせたところで、婚約破棄を告げられた。


 頭の中で数えていた針目は、乱れなかった。それが私という人間なのだと思う。


「聞いているのか、リディア・アシュフォード」


 王宮の夜会、大広間の隅。私は長椅子の陰に膝をついて、老侯爵夫人のドレスの裾を直していた。給仕が踏んで破いてしまったのを、夫人が泣きそうな顔で隠していたからだ。


 留めの結び目を作り、糸を歯ではなく小鋏で切る。祖母の教えだ。それから、顔を上げた。


「はい、殿下。婚約を破棄なさる、と」


「そうだ」


 セドリック第二王子は、満足そうに顎を引いた。楽の音はいつの間にか止んで、人の輪が遠巻きにこちらを囲んでいる。


「おまえは伯爵令嬢でありながら華がない。夜会では踊りもせず、隅で使用人の真似事ばかりしている。王子妃には、ふさわしくない」


 広間の壁際で、老侯爵夫人が居たたまれないように目を伏せるのが見えた。直したばかりの裾を握ったまま、動けずにいる。庇えば、今度は夫人が笑われる。分かっていたから、私は目だけで「結構です」と伝えた。


 周りの令嬢たちは、扇の陰でささめき合っている。知った顔もあった。ほつれた手袋を直して差し上げた方。刺繍の図案の相談にいらした方。どなたも、目が合う前に視線を逸らした。


 殿下の隣には、ステラ・ブライト男爵令嬢が寄り添っていた。


 見事なドレスだった。銀糸の刺繍が肩から裾まで一息に流れ、真珠が粒を揃えて縫い止めてある。仕立てたばかりの、張りのある絹。


 ——男爵家の身代で、これを?


 場違いな考えだと分かっている。けれど私の目は、人の顔より先に縫い目を見てしまう。あの刺繍は王都でも指折りの工房の手だ。この一着で、地方の男爵家なら一年は暮らせる。


「あら、殿下。ご覧になって」


 ステラ様が、扇の先を私の袖に向けた。


「そのドレス、お直しの痕がありますわ。ほら、袖のところ。よく見ると、継いでありますのよ」


 人の輪が、さざめいた。


「まあ。伯爵令嬢が、継ぎの当たったドレスを」


「なんて、みすぼらしい縫い目」


 ……この袖を直したのは、祖母だ。


 三年前、亡くなる少し前に。「まだ着られるよ、リディア。ほら、この通り」と笑って、一晩で直してくれた。近くで目を凝らさなければ分からないほど細かい、揃った針目で。


 みすぼらしい、という言葉と、この縫い目は、私の中でどうしても結びつかなかった。


「言い訳の一つもできないか」


 殿下が嗤う。


「そんなに針仕事がお好きなら、いっそ針子にでもなればいい。おまえにはお似合いだ」


 どっと、笑いが起きた。


 私は手の中の針箱を見た。それから、殿下とステラ様を見た。お二人とも、私が泣くのを待っている顔をしていた。


「では、そうします」


 私は顔を上げて、そう答えた。


 笑い声が、少しだけ揺らいだ。


 殿下は一瞬、言葉に詰まった。泣いて縋られる支度はしていらしても、頷かれる支度はしていらっしゃらなかった顔だった。


「……強がりを」


「いいえ、殿下。御前で嘘は申しません」


 ステラ様だけが、扇の陰で目を細めていた。あの方は最後まで、私の顔ではなく、私の袖の縫い目を見ていた。


 針子におなりなさい。それは殿下が思うほど、ひどい刑ではない。少なくとも、私にとっては。


    *


 アシュフォード伯爵家の応接間で、父は私と目を合わせなかった。


「王家から沙汰が来た。婚約の解消。理由は……双方の不一致、だそうだ」


「はい」


「おまえには、王宮へ奉公に上がってもらう。行儀見習いという名目だが——意味は、分かるな」


 分かる。醜聞を負った娘を屋敷に置けば、妹たちの縁談に障る。体面のいい、追放だ。


「はい、お父様」


 私が静かに答えると、父はかえって苦しそうな顔をした。責めてくれた方が楽だったのかもしれない。どちらにとって楽なのかは、考えないことにした。


 自室に戻って、旅支度をした。ドレスは三着だけ。装身具は、ほとんど置いていく。


 代わりに、櫃の一番上へ、祖母の針箱を収めた。


 黒檀の古い針箱。針、糸、小鋏、指貫、しるし付けのへら。嫁ぐ前の祖母が市井で針仕事をして暮らしを立てていた頃からの、道具たちだ。


 祖母は、よく言っていた。


「リディア。針を持つ手を、恥じてはいけないよ」


 発つ朝、母は玄関まで見送りに出て、私の襟元を直すふりをして、小さな包みを袂に入れた。中は金平糖と、折り畳んだ紙が一枚。『体を大切に』とだけあった。


 母は昔から、手紙が短い。短い分だけ、本当のことしか書かない人だ。


 馬車の中で金平糖を一粒だけ口に入れて、あとは包み直した。甘い物は、先の長い仕事の前に取っておく。これも祖母の癖だった。


 あの広間で確かめられたことが、一つだけある。


 私の針は、恥ずかしいものじゃない。


 それだけは、誰に笑われても動かない。だからあの言葉は、負け惜しみではなかった。


    *


 十日後。王宮の官房で渡された配属の紙には、こうあった。


『王宮衣装室付きを命ずる』


 衣装室。王族と式典の衣装を一手に引き受ける、王宮の針の頂点。何百人という針子が、新しいドレスを縫い上げる場所。


 案内の女官は、私の顔をちらりと見て、気の毒そうに付け加えた。


「ああ——衣装室といっても、あなたの行き先は縫製の広間ではありませんからね」


「と、いいますと」


「お直し部屋です。古くなった物、破れた物を繕う係。……衣装室の一番奥の、一番日の当たらないお部屋ですけど」


 女官は、それが二度目の刑の宣告だと思ったらしい。


 私は針箱を抱え直した。蓋の中で、小鋏がかたりと小さな音を立てた。


 悪くない、と思った。


 新しい物を縫う場所より、直す場所の方が——きっと、祖母の教えに近い。


お読みいただきありがとうございます。

「針子にでもなれば」と婚約破棄された令嬢が、本当に王宮の一番日の当たらない「お直し部屋」で、捨てられるはずのドレスを直していく物語です。


次話、お直し部屋との対面。誰も来ないはずの部屋で、リディアを待っていたものは。


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