第56話 値を、付けてくれ
総会の前夜、雪が少し降った。春の初めの雪は、積もらない。屋根に落ちて、すぐ水になる。私は燭台を二本立てて、その日の繕い物の残りを片づけていた。
戸口に人の気配がしたのは、ポレットたちが帰ったあとだった。
「開いておりますか」
低い声だった。私は針を置いた。ヴァレンタンが立っていた。黒の上着の肩に雪が少し残っている。腕に布包みを抱えていた。
*
「お掛けください」
私が椅子を引くと、その人は素直に座った。狭い部屋だ。裁ち台と燭台と布の山で、大人が二人座ると膝が近い。応接の間とは何もかも違った。
「この部屋は」
「はい」
「変わっておらんな」
私はその一言をしばらく受け止めていた。
「……お入りになったこと、おありなのですね」
「四年、毎日入った」
ヴァレンタンは壁の羽目板のほうを見た。見ただけで何も言わなかった。
*
包みが解かれた。出てきたのは仕事着だった。厚い麻の、丈の短い上っ張り。針子が作業のときに着るものだ。色はもとが生成りだったのだろうが、いまは灰に近い。何度も洗われて繊維が起きている。
私はそれを両手で受け取った。
「三十年前のものだ」
「はい」
「宮を出るときに、持ち出した。……本当は、置いていくものだ」
私は袖を検めた。右の袖口に当てが入っている。当ての角が、丸く切ってある。周りを一気に縫っていない。四辺のうち三辺を先に止めて、最後の一辺を返してから止めてある。
私は指を止めた。
「これは」
「あの人が入れた」
三十年前の運針だった。絎けは一寸に八目。玉結びは布間に沈めてある。私が毎日やっていることを、三十年前に、同じ手つきでやった人がいる。
私はその当てをしばらく見ていた。祖母の縫い目を、私は嫌というほど知っている。針箱の裏、肌着の花、大礼服の裏襟。
これはそのどれとも同じ手だった。
*
「傷んでいるのは、肩と、左の脇です」
「そうだろうな」
「肩は、袖付けの糸が切れかけています。脇は、生地そのものが薄い。……当てを入れないと、次の一年は持ちません」
「入るか」
「入ります。裾の縫い代から取れば、色が合います」
ヴァレンタンはうなずいた。
「黒の上着は、ご自分で直しておられますね」
その人は袖を隠さなかった。
「二十六年、直している」
「なぜ、こちらは直されなかったのですか」
沈黙が、少し長かった。燭台の芯が、じ、と鳴った。
「……あの人の縫い目が、入っている」
その人はそれだけ言った。
「解けば、消える」
「消えません」
私は当ての角に指を置いた。
「当ての内側の運針は、残ります。上から新しく縫っても、下の目は生きています。……直しというのは、そういう仕事です」
ヴァレンタンは顔を上げた。その顔を、私は初めて、まっすぐ見た気がした。六十前の、疲れた男の顔だった。
*
「値を、付けてくれ」
その人はそう言った。私は、一瞬、意味を取り違えた。
「お代でしたら、継ぎと当てで、銀貨二枚に——」
「そうではない」
ヴァレンタンは、机の上の仕事着に手を伸ばした。伸ばして触れる前に止めた。
「この一着に、値を付けてくれと言っている」
私は黙った。
「三十年、私はこれを、値のない物として持っていた。直せば消える気がして、直さずに置いた。……値のない物は、いつか捨てられる」
「はい」
「値のある物は、直される。直されるから、残る」
その人は手を膝に戻した。
「順序が逆だった。ずっと逆だった。……名を残すには、位が要る。位が要るなら、値が要る」
私は値表の最後の一行を思い出していた。見立て、銀貨一枚。直せないと申し上げる仕事にも、値がある。あれを書いたとき、私は自分が何を書いているのか、たぶん半分も分かっていなかった。
「銀貨二枚です」
私は言った。
「継ぎと当て。三日いただきます」
ヴァレンタンは、懐から銀貨を二枚出して、裁ち台に置いた。置いた指が、少し震えていた。
*
「明日は」
私は訊いた。
「議を出す」
「通りますか」
「通らん」
即答だった。
「理事は十七人。ドニの一件で私に不服の者が三人。……あれに近い工房が、あと四つある。値表を書き替えれば、新調の仕事が減ると信じている者たちだ」
「七人」
「七人だ。残り十人のうち、確実に賛成するのは四人。あとは風向きを見る」
私は、算盤を引き寄せかけて、やめた。数えても仕方がない。
「風向きを、変えるものはございますか」
ヴァレンタンは雪の残る肩を一度払った。
「ある」
「何でしょう」
「数だ」
その人は立ち上がった。
「彼らは、直しに位を作れば新調が減ると信じている。信じているだけで、数えたことがない。……二十六年、誰も数えなかった」
戸口でその人は振り向いた。
「明日、あなたも来なさい」
「私が」
「数を持って」
*
戸口の音が遠ざかってから、私はしばらく座っていた。それから、庫の控えを三冊、裁ち台に積んだ。三十年ぶんの、小さな額の羅列。
その隣にこの五か月の帳面を置いた。九十四件。銀貨六十八枚と、銅貨二十二枚と、桃を二籠と、卵を十六。
その隣に、もう一枚。城門の名簿だ。あの日、門で見立てをした人たちの名前と、品と、傷みを、私は全部書き留めていた。
四十人ぶん。私は算盤を出した。ポレットに教わったやり方で、足すだけなら、私にもできる。
夜のうちに、三度、足し直した。三度とも、同じ数になった。布を畳む音が、ひとつ。雪はもう、屋根で水になっていた。
お読みいただきありがとうございます。
値のない物は、いつか捨てられます。値のある物は、直されるから、残ります。
次話——総会。理事十七人。彼らは二十六年、誰も数えたことがありません。
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