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第55話 門下の頁

 二枚は貼り付いていた。湿りを吸ってそれから乾いたのだ。無理に剥がせば破れる。私は霧を吹いて、しばらく置いて、紙が均一に湿るのを待った。


 布と同じだった。急いではいけない。四半刻かけて二枚が離れた。最後の頁に名前が並んでいた。


    *


 名前の横に小さな図が描いてある。鋏。糸車。花。錨。木の葉。門下の名だ。祖母が仕込んだ針子たちの名と、それぞれが選んだ印。宮を出たあとに書いたのだろう。字が、ノートのほかの頁より少しゆっくりしている。


 十一人いた。私は一つずつ読んでいった。知らない名ばかりだった。最後の一行だけ、墨の色が違った。


 薄い。ずいぶんあとから、別の墨で書き足されている。


 『ヴァレンタン 書かざりし者』


 その横に印の図はなかった。かわりに日付があった。私は日付を三度読んだ。祖母が宮を出た年ではない。その四年後の、春。


 あの人が、宮を出た年だった。


 書かざりし者。意味が、分からなかった。書かなかった、ということだ。何を書かなかったのか。


 私は、ノートを閉じて、しばらく座っていた。三日前、私は紙を三枚持って、あの部屋へ行った。設立文書、蔵帳、返書の写し。全部本物だった。全部並べて、私は人を一人、決めつけた。


 今日、私の手元には、一冊しかない。答えは、入っていない。入っていないものを持っていくのは、間違っているのだろうか。


 私は立ち上がって外套を取った。布は、手に取ってみないと分からない。人も、たぶん、そうだ。


    *


 会館の応接の間に、私はノート一冊を持って入った。ヴァレンタンは、前と同じところに立っていた。私が手ぶらに近いのを見て、少しだけ、眉が動いた。


「用件を」


「先日は、失礼をいたしました」


「詫びに来たのか」


「いいえ」


 私は机の上にノートを置いた。


「祖母の技法ノートです。……最後の頁が、貼り付いておりました。昨日、開けました」


 ヴァレンタンは動かなかった。


「開いて、意味の分からない一行がありました。私には読めません。……読めるかたに、伺いに参りました」


 私は頁を開いて、机の上を、そっと押した。押した紙をその人は取らなかった。取らずに上から覗き込んだ。


    *


 長かった。窓の高いところで光が動いて、机の端まで届いた。やがて、その人は、机に片手をついた。


 ついた手が、白かった。


「……三十年前の、冬だ」


 声が、初めて、少し掠れた。


「宮内府から、照会が回ってきた。東の国が、返礼の御衣装を直した者の名を知りたがっている、と」


 私は息を止めていた。


「台帳を開いた。名は、もう塗られていた。……私は、名を知っていた」


「はい」


「知っていたが、台帳にない名を書けば、台帳を書き替えることになる。針子ひとりの一存で、宮の台帳は書き替えられん」


「……はい」


「だから、書かなかった」


 その人はノートの薄い一行を見ていた。


「『該当なし』とも、書かなかった。書けと言われて、書かなかった。……私は、何も書かずに、照会状を次席の机に戻した」


 次席が書いたのだ。該当の者、台帳に無し。あの一行を。


「そのあと、私は四年かけて、居づらくなった」


 ヴァレンタンはまっすぐ言った。


「自分で出たのではない。追い出されたのでもない。……四年かけて、私の居場所が、少しずつ無くなった。そういうやり方が、宮にはある」


 私はノートの一行に指を置いた。


「祖母は、これを、あなたが宮をお出になった年に書いています」


「……日付か」


「はい。祖母が宮を出た年ではありません。その四年後です」


 ヴァレンタンは日付を見た。見て動かなくなった。


「祖母は、知っていたのですね。あなたが、書かなかったことを」


「……知るはずが」


「知っていたから、書き足しています」


 私は頁の上のほうを指した。十一人の名前。それぞれの印。


「門下の頁です。ここに名があるということは」


 私はいったん言葉を切った。切ってから、続けた。


「祖母は、あなたを弟子から外しませんでした」


    *


 その人はしばらく何も言わなかった。やがて椅子のほうを見た。


「……お掛けなさい」


 私は座った。二度目の来訪で初めて座った。その人も向かいに座った。座ると、腕が机に載る。載った袖口が、私の目の高さに来た。


 私はそれを見てしまった。


「その袖口は」


「……ん」


「内側の折り返しから、取っておられますね」


 ヴァレンタンは袖を引かなかった。


「二十六年、この一着だ」


「はい。……手の癖が、祖母と同じです。当てを入れる前に、周りを三辺だけ止めておられる」


「そう習った」


「私も、そう習いました」


 部屋の音が、ひとつぶん減った。この人と私は、同じ人に、同じことを習っている。


    *


「組合長」


「なんだ」


「一つだけ、申し上げます」


 私は膝の上で手を組んだ。


「規約から直しを外したのは、あなたです」


 ヴァレンタンは目を逸らさなかった。


「……そうだ」


「名を消したのは、あなたではありません」


 その人の肩が、ほんのわずかに落ちた。落ちたのが分かるくらい、それまで、力が入っていたのだ。三十年、入りっぱなしだったのかもしれない。


「私は、名を書けばよかったのだ」


 その人はそう言った。


「台帳を書き替えることになろうと、書けばよかった。……三十年、そう思っている」


「はい」


「書かなかった代わりに、私は、名の残る仕組みを作った。名簿を作り、年季を決め、位を定めた。……そして、直しには位を与えなかった」


「なぜですか」


「位のある者は、責を負う」


 ヴァレンタンは、初めて、少しだけ顔を歪めた。


「筆頭針子だったから、あの人は責を負わされた。位がなければ、責も来ない。……直しを職の外に置けば、直しの上手い者は、二度と焼かれん」


 私は、そのとき、この人の二十六年が、ようやく一つの形に見えた。歪んだ守り方だ。守り方であることは間違いなかった。


    *


「守れましたか」


 私は訊いた。ヴァレンタンは答えなかった。答えないまま、しばらくして、立ち上がった。


「総会は、春の初めだ」


「はい」


「規約改定の議を、出す」


 私は思わず腰を浮かせた。


「組合長」


「勘違いするな」


 その人はいつもの低い声に戻っていた。


「出すだけだ。通るとは言っていない。理事は十七人おる。ドニを切ったことに不服の者が、少なくとも三人いる」


「……はい」


「議を出せば、私の首も議に載る。……それでも出す」


 その人は、ノートを閉じて、両手で私のほうへ返した。返す手つきが、ひどく丁寧だった。


    *


 城へ戻ったのは日が落ちてからだった。局長が部屋で待っていた。私はあったことをぜんぶ話した。


 話し終えると、局長はしばらく黙って、それから言った。


「三日前は、紙を三枚持っていったな」


「はい」


「今日は、一冊だ。しかも、答えの書いていないほうを持っていった」


「……はい」


「リディア」


 名前が、呼ばれた。建国祭の夜明けと、部の沙汰が下りた夜と、それに続く三度目だった。


「それが、そなたの流儀だ」


 私はうつむいた。うつむいた先で、膝の上の手が、うまく畳めていなかった。燭台の芯が、じ、と鳴った。


 春の初めまで、あとひと月半。私は針箱を開けて、その日の繕い物の残りを数えた。九件。今夜のうちに五件は片づく。


 糸を通す音が、ひとつ。今夜は、揃った音がした。

お読みいただきありがとうございます。

位のある者は、責を負う。——だから彼は、直しに位を与えませんでした。


次話——春の初め。総会の前の夜に、組合長が一着を持ってきます。


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