第54話 詰めた夜
会館の応接の間は冬の光でも明るかった。窓が高いからだ。仕立ての検分をするための部屋は、季節に関わらず、同じ明るさになるように作ってある。
ヴァレンタンは、前と同じところに立っていた。黒の上着。銀髪。椅子は今日も勧められなかった。
「用件を」
私は、持ってきた紙を三枚、机の上に順に置いた。置く手が、少し速かったと思う。
「一枚目です。組合の設立文書の写し。設立に要した金子、金貨二百枚。用立ての先、王都の商家一軒」
「見た文書だ」
「二枚目です。バルトルド商会の蔵帳の、二十六年前の頁。『組合設立、用立て。金貨二百枚』」
ヴァレンタンは二枚目を見た。見ただけで動かなかった。
「三枚目です。三十年前、東の国から我が国への照会と、その返書の写し。……返書には、こうあります。『当該の御衣装の修繕につきては、宮の台帳に該当の者これ無く候』」
*
部屋が、静かだった。窓の外で荷車の音が通り過ぎた。
「三十年前、宮内府はこの照会を、衣装室に回しています。衣装の細目ですから、当然です」
「そうだろうな」
「当時、筆頭は空席でした。台帳を扱えたのは、次席と、若手の頭だけです」
私は顔を上げた。
「あなたが、書かれたのですね」
*
ヴァレンタンは答えなかった。目も逸らさなかった。私の顔を見たまま、何も言わなかった。私は続けた。続けてしまった。
「商会の金で、組合を興されました。商会は、直して使われることを、いちばん嫌った家です。その金で作った規約から、直しが消えています」
「……」
「そして、あなたは名簿の最初の頁に、師匠の名を書き入れられた。……名は残して、位は消した。順序が逆です。名を残したいなら、位を守るべきでした」
自分の声が、少し高くなっているのが分かった。分かっていて止められなかった。
「三十年前に、東の国が名を訊いてきました。あのとき、名を書いていれば」
「——それで」
*
その二文字が、部屋にひどく大きく落ちた。ヴァレンタンは、机の上の三枚を、指で揃えた。角を揃えて私のほうへ押し戻した。
「お引き取りください」
「組合長」
「引き取りなさい」
声は荒れていなかった。前と同じだった。私は三枚を取った。取るとき、指がうまく動かなかった。
一礼して部屋を出た。階段を下りるとき、玄関の広間の棚が目に入った。年ごとに並んだ帳面の背。いちばん左に、家名のない四文字の載った巻がある。
私はそこで足を止めなかった。止められなかった、というほうが近い。
*
馬車の中で私はずっと窓の外を見ていた。何も起きなかった。怒鳴られなかった。反論されなかった。言い返されなかった。
言い返されていれば、まだ何かできた。私は事実を三つ持っていて、三つとも間違っていない。間違っていないものは、崩されない。
崩されないまま、私は追い出された。石畳の音が変わって、城門が見えてきたころ、ようやく気づいた。
あの人は一度も「違う」と言わなかった。
*
部屋へ戻ると、局長がいた。私は三枚を裁ち台に置いて、事の次第を話した。話しながら、自分の言い方が少しずつ言い訳めいてくるのが、自分で分かった。
局長は最後まで黙って聞いた。聞き終えて短く言った。
「そなたらしくないな」
「……はい」
「三つとも、事実だ。並べ方も正しい。詮議の場なら、それで通る」
「はい」
「あそこは、詮議の場ではない」
局長は三枚のうちの一枚を取り上げた。三十年前の返書の写しだった。
「そなたは、あの男を悪者にすれば、話が終わると思ったな」
私は答えられなかった。
「終わらん。悪者を一人作れば、規約は残る。……規約が残れば、次のドニが出る」
局長は写しを裁ち台に戻した。
「春に、商会を落としたときのことを思い出せ。そなたは何を出した」
「……帳面と、縫い目です」
「縫い目のほうだ。台帳の綴じ直しに気づいたのは、綴じ糸の白さだった。釦に気づいたのは、留めの後付けだった。……そなたは、いつも、物のほうから人を読む」
私は机の三枚を見た。紙。紙。紙。どれも、人のほうから人を読もうとした紙だった。
*
その夜、私は繕い物を一件、手に取った。女官の襟の当てだ。難しい仕事ではない。四半刻で終わる。
半分ほど縫って私は手を止めた。針目が、一つ、ずれていた。絎けは一寸に八目。この部屋の作法だ。八目のうちの五目めが、わずかに大きい。
誰にも分からない。着る人にも、洗う人にも、たぶんマダムにも分からない。私には分かった。私は糸を切ってそこから解いた。解いて縫い直した。
二度目は、揃った。揃ったのを確かめて、私は燭台の前でしばらく座っていた。三十年前に名を消された人の孫が、今日、人を一人、決めつけた。
証拠は三つあった。三つとも本物だった。本物の証拠で人を決めつけるのは、たぶん、名を消すのと同じくらい、簡単なことだ。
*
「リディアさま」
ポレットが、寝る前に部屋を覗きに来た。手に祖母のノートを持っている。麻布張りの、厚い帳面。織り継ぎの頁があり、稽古布の見本が貼ってある、あのノートだ。
「片づけてたら、棚から落ちたんです。……すみません」
「いいえ。……あなた、これを読んでいるのですか」
「読めるところだけ。図が多いので、字が分からなくても、なんとなく」
ポレットはノートを裁ち台に置いた。置いて少し首をかしげた。
「あの、これ、後ろのほう、ずっと白いですよね」
「白いです。祖母は、途中でやめたのだと思っていました」
「白いんですけど」
ポレットはノートの小口を指でなぞった。
「いちばん最後のところだけ、紙が二枚くっついてます」
お読みいただきありがとうございます。
本物の証拠で人を決めつけるのは、たぶん、名を消すのと同じくらい簡単なことです。
次話——祖母のノートの、最後の頁を開きます。
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