第53話 該当の者、台帳に無し
西離宮の輿入れ道具の間に、黒い文箱が置かれていた。東の国の漆だ。藍の御衣装を納めていた長持と、同じ手の物だった。
「まず、礼状です」
王太后様が仰った。通詞の訳した写しが添えてある。私はそれを読んだ。藍の一着が、無事に帰ったこと。艶が三十年前と同じであること。太妃様が箱を開けたとき、しばらくお声が出なかったこと。
そして最後にこうあった。
『直したる者の名、二つ承り候。リディア・アシュフォード。ゼイナ。……我が宮の目録に、この二つの名を書き加え申し候』
私はその一行を二度読んだ。東の国では、作り手の名を残さない。ゼイナはそう言った。私の名も、師の名も、師の師の名も、どこにも縫われていない、と。
その宮の目録に二つの名が書かれた。
「よい報せですね」
「……はい」
「では、よくないほうを開けましょう」
*
文箱の中には書付が二枚入っていた。どちらも写しで、古い紙を写し直したものだった。東の国の書役の手で、原文と訳文が並べて書いてある。
王太后様が、一枚目を取られた。
「三十年前の、東の国から我が国への問い合わせです」
私は横から覗いた。文は短かった。
『先の御返礼の御衣装、まことに見事の細工にて、太妃様つねに愛でおられ候。ついては、直したる者の名を賜りたく候。目録に記し置き、末長く伝えたく存じ候』
名を、賜りたい。目録に記して、末長く伝えたい。東の国には、作り手の名を残す習いがない。ないからこそ、この一着に限っては、名を残そうとしたのだ。
私は二枚目に手を伸ばした。伸ばして王太后様に止められた。
「……私が読みます」
*
二枚目は王国からの返書だった。もっと短かった。
『御照会の儀、承り候。当該の御衣装の修繕につきては、宮の台帳に該当の者これ無く候。何卒、御諒承下されたく候』
該当の者、台帳に無し。部屋の中が、しばらく静かだった。王太后様は、その紙を膝の上に置いたまま、動かれなかった。
「……私は、この文を知りません」
「はい」
「三十年、知りませんでした」
その声が、初めて、少しだけ揺れた。
「宮内府の事務です。国と国の書簡でも、細目の照会は、いちいち上へ上げません。台帳を調べて、書いて、出す。それだけの仕事です」
「はい」
「調べたのでしょう。ちゃんと調べたのだと思います。……台帳には、もう名がありませんでしたから」
私は火事の年のことを思った。沙汰が下りた。罪科は不問。ただし退宮。そのあとで誰かが台帳の名を塗った。仕立て札を抜いた。
その「あと」に、この照会が来た。照会を受けた者が台帳を開いたとき、そこには、塗られた跡だけがあった。
「あの子が、あの一着を直したのは」
王太后様が仰った。
「宮を出る、三日前です」
*
私はしばらく何も言えなかった。言えないまま、膝の上で手を組んでいた。祖母は、この返書を知らない。知らないまま、市井で三十年、紫紺の絹で織り継ぎの稽古を続けた。
名を残そうとした人が、海の向こうに、いた。それを、この国が消した。
「リディア・アシュフォード」
「はい」
「あなたに謝ります」
「王太后様」
「私が贈った一着です。私が頼んだ直しです。……返書を、私が書くべきでした」
私は首を振った。
「王太后様は、ご存じなかったのです」
「知らなかったことが、罪です」
その言葉を私は半年前にも聞いていた。玉座の間で国王陛下が仰った言葉だ。この方の息子は、たぶん、この方に似たのだ。
*
その日、私は手巾を一枚預かった。四十年使われている、麻の手巾だ。春に一度、直した。掛かりが三か所切れて、隅の指貫の刺しが一輪ほつれていた。
「もう一辺、切れました」
「拝見します」
縁かがりの、別の一辺だった。糸が擦れて二寸ほど解けている。私は古い糸を殺さないように、解けた糸の端を拾って、そこから継いだ。新しい糸を足すのは、どうしても足りないところだけにする。
直しながら、私は訊いた。
「王太后様。この返書を書いたのは、どなたでしょうか」
「宮内府の書役でしょう」
「はい。……ですが、台帳を調べたのは、宮内府ではないはずです」
王太后様が、顔を上げられた。
「衣装の細目です。宮内府は、衣装室に照会したはずです」
「……そうですね」
「三十年前、衣装室でその照会を受けたのは、どなたでしょうか」
*
答えはその日のうちには出なかった。部屋へ戻って私はマダムを呼んだ。マダムは、しばらく考えて、首を横に振った。
「わたくしは、十五でした。照会などという言葉も知りません」
「では、当時、衣装室で台帳を扱えたのは」
「筆頭が空席でしたから……次席と、若手の頭です」
若手の頭。二十代の終わりの、いちばん上の弟子。私は指先が冷たくなるのを感じた。
「マダム」
「はい」
「あの方が、書いたのでしょうか」
マダムは答えなかった。答えないまま、両手を膝の上で組んだ。硬い、四角い手だった。
「……分かりません」
「はい」
「分かりませんが、リディア・アシュフォード」
その人は顔を上げた。
「憎むだけで終わらせないでください、と申し上げました」
私はうなずいた。うなずきながら、自分の中で何かが、急いで結び目を作ろうとしているのが分かった。
設立の金は商会から出た。師の名を消した返書に、あの人が関わっている。名を残しながら、位を消した。
全部、繋がる。繋がってしまう。私は、その夜、会館へ宛てて書状を書いた。書き終えたのは、燭台が二本とも短くなってからだった。
お読みいただきありがとうございます。
名を残そうとした人が、海の向こうにいました。それを、この国が消しました。
次話——証拠を並べて、会館へ行きます。……この主人公が、いちばんやってはいけないやり方で。
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