第52話 金貨二百枚
その朝、マダム・ジョゼットが小さな包みを持ってきた。
「お直しを、一つ」
包みの中は針山だった。掌に載るくらいの、丸い針山。上等な紺の裂で作ってある。糸で細かく絞ってあって、上から見ると花のように見えた。
ずいぶん古い。裂は褪せ、絞りの糸は白茶けている。
「詰め物が、痩せまして」
私は手の中で転がした。押すと、ぐしゃりと沈んで、戻らない。中の毛が固まっているのだ。
「詰め替えれば、あと二十年は持ちます。……この裂は、そのままお使いになりますか」
「そのままで」
マダムは即座に言った。
「そのままで、お願いします」
*
絞りの糸を解いて詰め物を出した。中は羊の毛だった。上等な毛だ。二十年以上前の毛は、脂が抜けて、埃のように崩れた。
「新しい毛は、庫にございます。……マダム。これは、いつのものですか」
マダムは窓のほうを向いていた。
「二十六年前です」
私は手を止めた。
「あの人が、宮を出る日に、裁ち台に置いていきました」
「置いていった」
「はい。誰に、とは言いませんでした。ただ、置いていきました。……わたくしは、十九でした」
マダムはこちらを見ずに続けた。
「拾ってしまったのです。誰も拾わないので。……拾ってから、返す機会がありませんでした」
「二十六年」
「捨てられませんでした」
その言い方に私は何も足さなかった。この人は、二十六年、この針山を持っていた。直しの目を持つなと教えた人の針山を、直さずに、痩せたまま持っていた。
新しい毛を詰め、絞りの糸を掛け直した。糸は元のものを使った。白茶けているが、まだ切れない。
仕上げて渡すと、マダムはそれを掌で押した。押して戻った。
「……戻りましたね」
「戻ります」
「お代は」
「銀貨一枚です」
マダムは銀貨を置いて、針山を握って、それから、めずらしく口の端を上げた。
「値表がありますと、頼みやすくて助かります」
*
設立文書の検分は、その日の午後に始まった。組合は素直に出した。隠すものがないという構えだった。
二十六年前の設立文書。名簿の最初の巻。会館の建屋の契約。書役の雇い入れの記録。どれも整っていた。整いすぎているくらいだった。
問題は金の欄だった。
『設立に要したる金子、金貨二百枚。用立ての先、王都の商家一軒』
商家一軒。名前が書いていない。
「書かんのが普通か」
「普通ではございません」
セラファンが答えた。立ち会いに来ていたのだ。
「借財の相手は、書きます。……私が入りましてからの帳では、必ず書いております」
*
照合には二日かかった。法務方に、商会の蔵から出た帳面が保管されている。春の詮議で押収された、あの二重帳簿の裏側——蔵帳だ。
局長が閲覧の許しを取り、私が横で頁を繰った。あの夜と同じ革の匂いがした。二十六年前の頁。貸し方の欄。
名前が、細かく並んでいる。子爵家。伯爵家。宮内府の役人。仕立て屋。三十七行目にそれはあった。
『組合設立、用立て。金貨二百枚』
貸した相手の名は書いていなかった。書いていなかったが、その行のすぐ下に、返済の記録が続いていた。年に十枚ずつ。二十年かけてきちんと返している。
最後の行は六年前だった。
『皆済』
*
私はその三十七行目をもう一度見た。見て灯りを近づけた。字が、違う。前後の行は同じ書役の手で書かれている。撥ねが短く、行の頭が少しずつ右へ流れる癖のある字だ。三十七行目だけが、その癖を持っていない。
「局長。この一行だけ、別の手です」
局長が身を乗り出した。
「……確かに、違うな」
「前後の行は書役です。この行は、書役でない誰かが書いています。それも、書き慣れていない人ではありません。字は上手です。上手なのに、行の中で収めきれずに末尾が詰まっています」
「詰まる、というのは」
「あとから書き足したときの詰まり方です。この行は、帳を作るときに書かれたのではなく、あとで、空いていた行間に入れられています」
局長はしばらくその一行を睨んでいた。
「……名前を書かなかったのは、書役ではないな」
「はい。書役なら、書く欄があります」
「主人だ」
局長は頁の端を指で押さえた。
「先代のバルトルドが、自分の手で書き足した。帳に残したいが、書役には見せたくない貸しだった」
私は、その意味を、しばらく掴みかねていた。商会が隠したい貸し。返済が二十年きちんと続いて、六年前に皆済で終わっている貸し。
隠したいのは貸したことなのか。返されたことなのか。
*
「返している」
局長が言った。
「はい。……二十年かけて、利息も付けて」
「商会の貸しで、皆済まで行った例を、私は知らん」
局長は頁に指を置いた。
「あそこの商いは、返させないことで人を縛る。殿下の三千枚も、グレイル家の掛け売りもそうだ。……返し切られては、縛れん」
「では、この方は」
「縛られる前に、返し切った」
私はその三十七行目を見ていた。二十六年前。宮を出た針子に、金貨二百枚を貸す商家。当時のバルトルド商会は、火事のあとの式典景気で、いちばん伸びていたころだ。新調が六倍に跳ね上がった、あの年から数年。
その金で組合ができた。直しの位のない、組合が。
「……局長」
「言うな」
局長は頁を閉じた。
「言いたいことは分かる。私も同じことを考えた。だが、この帳面には書いていない」
「何が、でしょう」
「知って借りたのか、知らずに借りたのかだ」
*
部屋へ戻ったのは日が落ちてからだった。私は帳面を開いて今日見たものを書いた。設立文書。金貨二百枚。商家一軒。二十年で皆済。
書きながら、指が冷たくなっていくのが分かった。直しを職から外した規約は、直しを殺した商会の金で作られている。
その一行だけを取れば、話は簡単だ。簡単すぎる。簡単な話には、たいてい、抜けているところがある。
私は、抜けているところを探そうとして、探しきれずに、燭台の芯を切った。
*
その翌朝、宮内府から報せが来た。東の国からの船が、港に着いた。使節が発ってから、二月半。冬の半ばだった。
届いたのは、太妃様からの礼状と、それから、もう一つ。文箱が一つ、船に載っていた。
お読みいただきありがとうございます。
直しを職から外した規約は、直しを殺した商会の金で作られていました。——簡単な話には、たいてい抜けているところがあります。
次話——東の国から来た文箱に、三十年前の書簡の写しが入っています。
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