第50話 三十年分の帳面
庫の灯りは夜通し点いていた。
「三十年ぶんだ」
ゴットフリートは棚の下段を顎で示した。革綴じの帳面が、年ごとに並んでいる。納入記録の控え——庫の側の記録だ。表の管理簿とは別に、この老人が三十年書き継いできた。
「探し物は」
「直しに、いくら払われたか」
老人は少し驚いた顔をした。この人が顔に何かを出すのはめずらしい。
「そんなもの、全部ある」
「全部」
「品が庫を出て、直って戻れば、控えに書く。誰が直して、いくら払ったか。……三十年、書いた」
*
私とポレットとマダムで、三人がかりで繰った。あった。どの年にもあった。
『大礼の間 垂れ幕 繕い 銀貨四枚』
『近衛外套 肩継ぎ 十二着 銀貨十八枚』
『先王妃様御衣装 虫繕い 銀貨二枚』
毎年、必ずある。額は小さい。一件で銀貨一枚から数枚。だが、件数が多い。ポレットが、算盤を持ってきた。まだ上手ではないが、足すだけならできる。
「……一年で、だいたい、銀貨二百枚くらいです」
「三十年で」
「六千枚。……金貨だと、六十枚くらいですか」
金貨六十枚。三十年で、たったそれだけ。新調なら、礼服一着が金貨十二枚だ。五着ぶんにもならない。
だが、そういう問題ではなかった。
「マダム。二の条を、覚えておいでですか」
「『公定の値なき支出は、検査しようがない』」
「王国は、三十年、直しに払っています。額も、日付も、品名も、払い先も、この帳面に全部あります」
私は頁に手を置いた。
「公定の値がなかったのではありません。公定の値を、誰も作らなかっただけです」
*
その夜半、もう一つ、見つかった。いちばん古い巻の、最後の頁だった。納入の記録ではなかった。名前が並んでいた。名前の横に小さな図が描いてある。
糸車。鋏。花。そして、いちばん上に、指貫。私はその頁を灯りに近づけた。
「これは」
「壁の印だ」
ゴットフリートは、椅子から動かずに言った。
「お直し係が変わるたびに、写した。誰の印がどこにあるか、書いておかんと、分からんようになる」
「どなたが、写されたのですか」
「わしの前の庫番が書いた。そのまた前の庫番が書いた。……わしも書いた」
いちばん下に、新しい墨で、一行あった。
『糸の通った針 リディア・アシュフォード』
「……いつ、お書きになりました」
「去年の冬だ。お前が刺した晩に見にいった」
老人は、そこで初めて、こちらを見た。
「誰も書かんから、わしが書いた」
*
夜明け前に局長が来た。卿の広間から、そのまま来たらしい。目の下が黒かった。私は帳面を三冊、裁ち台に積んだ。控えのいちばん古い巻と、いちばん新しい巻と、算盤の紙。
「二の条が崩れます」
「……崩れるな」
「一の条も崩れます。費目が重なっているのではありません。三十年間、営繕費の中に埋もれていた額に、名前が付いただけです」
「三の条は」
「三の条は、崩せません」
私は正直に言った。
「宮廷衣装徒弟が組合法の潜脱かどうかは、この帳面では答えられません」
局長は算盤の紙を取り上げた。
「三十年で金貨六十枚か」
「はい」
「……安いな」
「安いです」
「安い仕事を三十年続けて、帳面に残した者がいる。それを消す建白に、宮内府は三月かけている」
局長は紙を置いて、束の角を、指一本で揃えた。
「持っていく」
*
朝、城門に人が集まっていた。昨日より多かった。四十人はいた。先頭に立っていたのは、あの年配の女官だった。退官なさったはずの人が、宮の門に立っておられた。
その隣に十九ばかりの娘がいた。黒い喪服を着ている。肩と袖丈を詰めた、あの一着だ。衿には二枚重ねの当てがある。
「お直し係様」
女官は紙の束を差し出した。
「城下でも、宮でも、集めました。……お直しの部を、お取り潰しにならぬよう、と」
私はそれを受け取った。名前が並んでいた。書ける者は自分の字で。書けない者は、隣の者に代筆してもらって、横に爪印を押していた。爪印のほうが、多かった。
近衛の名前があった。ギヨムの筆跡と、その同輩の肩章の彼と、隊長の名まであった。メルヴィル伯爵夫人の名があった。その下に産着の子の名も書いてある。まだ生まれて三月の子の名を、母親が代わりに書いたのだ。
建国祭で再生の三着を着た、あの家々の名があった。いちばん最後の頁に、細く整った字があった。
『オーレリア』
王女殿下の署名だった。
王太后様のお名前は、なかった。私は、それに気づいて、少しのあいだ、頁を見つめていた。あの方は、書かれなかったのだ。
春には、文一通で閉鎖の勧告を取り下げさせた方が、今度は署名をなさらなかった。なぜかは考えるまでもなかった。
上から来た力で守られた部屋は、上から来た力で潰される。それをあの方はよくご存じだ。
*
その日の午後、宮内府から返答があった。建白の一の条と二の条は差し戻し。理由——『三十年に及ぶ庫側控えにより、修繕支出の実績および記録の存在が確認されたるにつき』。
三の条は、なお検分を継続。衣装修繕費の差し止めは、解除。そして、営繕方の裁定について、一行あった。
『羽目板の意匠については、庫側控えに歴代の記載あるにつき、宮の認むるところとして扱う』
人足は来なかった。書役だけが来て、律儀に頭を下げて、書付を回収して帰っていった。ポレットは、その書付が廊下の角を曲がるまで見送って、それから羽目板の前に座り込んだ。座り込んだまま、しばらく動かなかった。
コリンヌは広間へ移らずに済んだ。俸給は月末に二月ぶんまとめて出た。アネットは支度金で新しい奉公着をもらったが、古いほうを捨てなかった。
「肩、あたしが継いだやつなので」
「不揃いですよ」
「不揃いですけど、あたしのです」
私はそれ以上、何も言わなかった。
*
夜、局長が来た。帳面を返しに来たのだ。庫の控え三冊を抱えてきた。私たちは裁ち台の上でそれを開いた。三十年ぶんの、小さな額の羅列。銀貨一枚。銀貨二枚。銀貨四枚。
「この帳面は、誰のものだ」
「庫番のものです」
「宮のものではないな」
「はい。私的な控えです」
「……その私的な控えで、宮の裁定が一つ変わった」
局長は頁を繰った。繰る手が、途中で止まった。私も同じ頁を見ていた。三十年前の、いちばん古い巻。火事の年。その年にも直しの記録はあった。
『先王妃様御衣装 寸法直し 東の国への返礼 銀貨五枚 エディス』
銀貨五枚。国と国の返礼になった一着に、王国が払った額が、銀貨五枚だった。私はその一行の上に指を置いた。置いてから、動かせなくなった。
局長の手が、同じ頁の端に置かれていた。紙の上で指が触れた。どちらもすぐには引かなかった。
燭台の芯が、じ、と鳴った。
「……安すぎる」
局長が言った。
「はい」
「正当な対価を、付けろ」
「はい」
私は、そのとき、少し笑ってしまった。笑ったせいで目のあたりが熱くなった。この人が最初に私に言ったのが、その言葉だった。
*
同じ夜、織物町では、別のことが起きていた。それを私が知ったのは、翌朝、セラファンが持ってきた書状によってだった。
組合の理事、ドニ。除名。理由は書いていなかった。書いていないことが、理由だった。セラファンは、いつもどおり丁寧に腰を折って、それから、めずらしく一言だけ付け足した。
「組合長が、仰いました。……『あれは、やり方を知らない』と」
お読みいただきありがとうございます。
公定の値がなかったのではありません。公定の値を、誰も作らなかっただけです。
次話——甥を切った組合長が、ようやく表に出てきます。
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