第49話 壁を剥がす
検分は翌日の午前に来た。営繕方の書役が二人。そして、御用商の立ち会いとして、ドニがいた。
書役は羽目板の前に立ち、上から下まで眺めて、手帳に何か書いた。
「これは、いつからのものでしょうか」
「分かりません」
私は正直に答えた。
「私がこの部屋に参りましたときには、ございました。いちばん古い印は、三十年より前のものです」
「三十年」
「歴代のお直し係が、一人ずつ刺したものです。糸車、鋏、花——それぞれの、名前の代わりの印です」
書役は手帳から顔を上げた。
「歴代の、というのは」
「歴代の、です」
「どの帳面に、そう書いてございますか」
*
私は答えられなかった。どの帳面にも書いていない。衣装室の台帳には、針子の名と配属が載っている。お直し係の名も載っている。けれど、壁の印のことは、どこにも書かれていない。
書く欄が、ないからだ。書役は律儀な人だった。意地悪ではなかった。ただ、律儀だった。
「帳面に載っておらぬのであれば、これは、宮が認めた印ではございません」
「はい」
「宮が認めておらぬ刺繍を、宮の備品たる羽目板の布地に施しますのは、……毀損にあたります」
毀損。ドニが、少し離れたところで、口の端を上げないようにしているのが見えた。我慢しているのだ。若い人だ、と私は思った。
*
「一つだけ、申し上げてもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
「この羽目板の布地は、宮の備品ではありません」
書役の筆が止まった。
「と、申しますと」
「三十年以上前に、当時のお直し係が自分で張ったものです。庫の納入記録に、羽目板の布地の払い出しはありません。ゴットフリート——物品庫番に、お確かめください」
書役は手帳を閉じて庫へ行った。半刻ほどで戻ってきてまた開いた。
「払い出しは、ございませんでした」
「では」
「では、この布地は、宮が買ったものではございません。……宮が買っておらぬ物を、宮の壁に張るのも、また、宮の許しなき改造にあたります」
私はそこで理解した。どちらでも同じなのだ。宮の物であれば、毀損。宮の物でなければ、無断の改造。
輪になっている。建白の三か条と同じ形だ。
*
裁定は二日後に下りた。
『お直しの部の壁面羽目板、旧布地を除き、新規に張り替うべし』
除く。剥がす、とは書いていなかった。私は書付を持って宮内府へ行った。式典局にも行った。局長は朝から卿の広間に詰めていて、会えなかった。書き置きを残した。
戻ると、ポレットが羽目板の前に立っていた。立って見上げていた。
「リディアさま」
「はい」
「あたし、まだ、印、刺してません」
私はその隣に立った。
「知っています」
「一人前になってからにするって、決めてたんです。みならいのうちに刺したら、あの列に失礼だと思って」
ポレットは、いちばん古い端の、褪せた銀糸の指貫を見ていた。
「宮廷衣装徒弟になったとき、刺そうかなって思いました。でも、まだ早いなって」
「……ええ」
「早すぎましたね」
その言い方があんまり静かだったので、私は返事ができなかった。
*
人足が来たのは翌朝だった。三人。営繕方の書役が一人ついてきて、書付を読み上げた。読み上げる声はやはり律儀だった。
「では、始めます」
人足が道具箱を下ろした。細い鏨と、木槌。私は一歩前に出た。
「お待ちください」
「お直し係様。裁定にございます」
「存じております。……不服の申し立てが、まだできるはずです」
「申し立ては、下りてからでございます。……作業を止める権は、私にはございません」
正しかった。この人も規約を守っている人だった。人足の一人が、いちばん端——いちばん新しい端の、私の印のあたりに鏨を当てた。
その前にポレットが立った。
*
誰も何も言わなかった。ポレットは板を背にして立っていた。両手を後ろに回して、羽目板に掌をつけていた。背丈が足りないので、その頭は、いちばん古い端の指貫の印より、ずっと下にあった。
「どいてくれ」
人足が言った。乱暴な言い方ではなかった。困っている言い方だった。
「どきません」
「嬢ちゃん、俺たちは仕事で来てるんだ」
「あたしも、仕事です」
ポレットの声が、震えていた。
「あたし、宮廷衣装徒弟です。名簿の一行目です。……この壁の続きに、いつか自分の印を刺すのが、あたしの仕事です」
「そんな仕事は、書付にねえよ」
「書いてないだけです」
私は、そのとき、動けなかった。動けなかったのは、怖かったからではない。この子を引かせるべきだと、頭のどこかが言っていたからだ。引かせて、正しい手順で不服を申し立てて、正しく負けるべきだと。
正しく負けるのは、この五か月で、何度もやった。やって、そのたびに、次があった。この壁には、次がない。
*
「お待ちなさい」
声が、戸口から来た。マダム・ジョゼットだった。息が上がっていた。広間から走ってきたのだ。この人が走るところを私は初めて見た。
「筆頭衣装係、ジョゼットです。書付を拝見します」
書役が渡した。マダムは目を通して、それから、書役の顔を見た。
「張り替えの期日は、書いてございませんね」
「……はい」
「では、明朝までお待ちなさい」
「しかし」
「期日の定めのない裁定を、一日で執行する義理はございません。衣装室の作業場でございます。作業場の中の物を動かすには、筆頭の立ち会いが要ります。……わたくしは、今日は立ち会いません」
マダムは書付を返して、羽目板の前に立った。ポレットの隣に。
「明朝、参ります。それまでは、動かさないでいただきます」
書役は、しばらく考えて、手帳に何か書いた。
「……承知いたしました。明朝、改めて」
人足たちは道具箱を持って出ていった。
*
戸口の音が消えてから、ポレットが座り込んだ。座り込んでそのまま泣いた。今度は声を出して泣いた。
マダムはその頭に手を置かなかった。置かずにまっすぐ立ったまま言った。
「一日です」
「……はい」
「一日で、何をなさいますか」
私は羽目板を見た。いちばん古い端の、褪せた銀糸の指貫。糸車。鋏。花。そして、いちばん新しい端の、糸の通った針。
どれも、帳面に載っていない。載っていないから、消せる。載っていれば——
「……マダム」
「はい」
「帳面を、探します」
お読みいただきありがとうございます。
書いていないだけです。——書いていないものは、理由もなく消せるのです。
次話——一日。城門の外に、朝から人が集まっています。
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