第46話 新調が、減ります
使節が発つ日の朝、ハディル侯が外套を持ってお直しの部へいらした。供も連れず、廊下の狭さに肩をすぼめて、戸口で頭を下げられた。
「厚かましいお願いにございます。……帰りも三月でございますので」
旅の外套だった。厚い毛織で、袖口が擦れ、裾が二か所ほつれている。
「四日いただけますでしょうか」
「船が出るのは、明後日にございます」
「では、明日の朝までに」
私は袖口を検めた。芯は生きている。折り返しに共布もある。裾のほつれは糸が切れただけだ。
「お代は銀貨二枚」
侯はしばらく黙っておられた。
「二枚、でございますか」
「はい」
「……こちらでは、二枚で、人の三月を守るのですね」
*
ゼイナは書付を持ってきた。糊の配合と、煮る時間と、濃さの見方。私が帳面に書き取ったのと同じことが、その人の字で、丁寧に並んでいた。
「書きました」
「ありがとうございます」
「私は、あなたに、これしか渡せません」
私は、自分の帳面から地直しの頁を写したものを渡した。掌の付け根で押すこと。指先を使わないこと。湿りを待つ時間のほうが長いこと。
ゼイナはそれを二度読んで懐に入れた。
「リディア」
「はい」
「太妃様に、あなたの名を伝えます」
「……恐れ入ります」
「私の名も、伝えます」
その人は初めて自分から手を差し出した。私は握った。太い、節の目立つ、織る人の手だった。
城壁の上から、使節の列を見送った。ポレットが手を振って、コリンヌに窘められて、それでも振っていた。
列が街道の曲がりへ消えるまで、私は立っていた。
*
建白が出たのはその三日後だった。持ってきたのは局長で、いつもより早足だった。
「読め」
三か条あった。一、『衣装修繕費』は営繕費に戻すべし。費目が重なっており、無駄である。二、公定の値なき支出は、検査しようがない。組合の値表に直しの位がない以上、宮の値表は根拠を欠く。
三、『宮廷衣装徒弟』は、組合法の潜脱である。私は三度読んだ。読むあいだ、局長は窓の外を見ていた。
「……よく、書けています」
「そうだ。よく書けている」
「一と二は、繋がっています。組合の値表に位がないから、宮の値表に根拠がない。……根拠がないから、費目も要らない」
「輪になっている。どこから崩しても、もう一方が支える」
「これを書いたのは」
「ドニという男だ。組合長の甥にあたる。……このあいだ、理事に上がったばかりだそうだ」
*
ドニは、その日の午後に、自分から来た。セラファンとはまるで違った。腰の折り方が浅く、部屋を見回す目が速い。三十代の半ばくらいだろうか。仕立ての良い上着を着ているが、着方が少し急いでいる。
「王都仕立て組合、理事のドニと申します」
「お直しの部の、リディア・アシュフォードでございます」
「建白は、お読みいただけましたか」
「拝読しました」
「ご感想は」
訊いてくるとは思わなかった。
「よく書けています」
ドニは満足そうに笑った。笑い方が、若かった。
「恐れ入ります。三日で書きました」
「三日」
「拝謁の翌日から。……あの一件で、組合の中も、いろいろと動きましたので」
私は、衣桁の前に立っていた黒い上着の背中を思い出した。あの日、組合は面目を失った。失った隙にこの人は理事に上がったのだ。
「一つ、伺ってもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
「なぜ、直しの費目を消したいのですか」
ドニは少しも詰まらなかった。用意していた答えではなく、本心が先に出た顔だった。
「新調が、減りますので」
*
あまりにまっすぐだったので、私はすぐには返せなかった。
「……減りますか」
「減ります。当たり前でございましょう。直した一着は、新しく買われません。あなたが五か月で直された数を、うちの工房の勘定に置き替えれば、金貨で百枚を優に超えます」
「百枚」
「王宮の新調は、五年で倍に増えました。増えた先に、うちの徒弟の飯があります。……お直し係様、あなたは、うちの若い者の飯を、一年で百枚ぶん減らされました」
私は、その言い方を、しばらく胸のうちで転がした。嘘ではなかった。数え方が違うだけで、彼の言っていることは、たぶん正しい。
「ご不快でしたら、お詫びします」
ドニはまた浅く腰を折った。
「ですが、手前どもは商いをしております。名簿にない方が、値表にない仕事で、宮の帳に費目を作られた。……黙って見ておるわけには参りません」
彼が帰ったあと、ポレットが小さな声で言った。
「あの人、悪い人ですね」
「……ええ」
「あの、でも」
ポレットは糸巻きを持ったまま、言葉を探していた。
「あの人のところにも、あたしみたいな子が、いるんですよね。ご飯の話をしてました」
私は答えなかった。答えられなかったのは、この五か月で、初めてだった。
*
夜、局長が宮内府から戻ってきた。書き付けの束を裁ち台に置いて、角を揃えて、それから揃えた手をそのままにした。
「宮内府は、建白を受理した」
「はい」
「受理しただけだ。認めたわけではない。検分にかけて、可否を決める」
「では、しばらくは、そのままで」
「そうはいかん」
局長は顔を上げた。
「慣例がある。……建白の出ている費目は、検分が済むまで、支出を差し止める」
私は意味を掴むのに一拍かかった。衣装修繕費。材料の代金。俸給。
「差し止め、というのは」
「止まる。明日から」
「いつまで」
「検分が済むまでだ。宮内府の検分は、早くて一月。長ければ、三月」
燭台の芯が、じじ、と鳴った。私は明日の分の帳面の頁を思った。品と、寸法と、お代。ポレットが書く、まだ曲がった字。
書いても、払われない欄が、明日から始まる。
お読みいただきありがとうございます。
「新調が、減りますので」——嘘ではありません。数え方が違うだけです。
次話——城下で、組合員でない直し職人が「もぐり」として摘発され始めます。
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