第45話 二つの手
五日のうち、四日を地直しに使うと決めた。輿入れ道具の間の長い台に藍を広げる。霧吹きで湿りを与え、しばらく置いて、布が均一に湿るのを待つ。待つ時間がいちばん長い。
戻すのは掌の付け根だ。縦に押して横に引く。指先ではやらない。指先は点で当たるから、そこだけ伸びて筋になる。
「掌で、ですか」
ポレットが真似をしてすぐに手を止めた。
「……力、要りますね」
「要ります。ですが、力で伸ばすのではありません。布が戻りたがっている方向へ、手を添えるだけです」
その言い方が、我ながら少し曖昧だったので、私は言い直した。
「布は、織られたときの形を覚えています。糊が抜けて、忘れかけているだけです。思い出させるのです」
マダムが、隣の台で鼻を鳴らした。
「相変わらず、教え方が下手ですこと」
「申し訳ありません」
「ですけれど、それで分かる者だけが残ります。……ポレット、掌の付け根はここ。ここで押して、指は添えるだけ」
「はい!」
「大きな声を出さない」
*
ゼイナは別の卓で糊を作っていた。米糊を煮て、漉して、膠を少し入れる。分量は目分量ではなかった。小さな竿秤を持ってきていて、きちんと量っていた。
「濃さは」
私が覗き込むと、その人は箆を持ち上げてみせた。糊が箆から落ちるとき、細く糸を引いた。
「これくらい。糸を引いて、切れるまでの長さで見ます」
「長すぎると」
「板になります。短いと、艶が出ません」
私は帳面に書き取った。書いていると、ゼイナが横から覗いた。
「書くのですか」
「書きます。……忘れますので」
「私は、書きません。師から口で聞いて、手で覚えました」
「では、ゼイナさんが亡くなられたら、その糊は」
言ってから、失礼だったと思った。だがゼイナは怒らなかった。しばらく箆を見てそれから言った。
「……消えます」
その人は竿秤を卓に置いた。
「消えます。だから、私も書きます。今日から」
*
三日目に雨が降った。長雨ではなかったが、湿りが抜けない。地直しで戻した布が、乾きにくくなった。乾かなければ、次の面へ進めない。
私たちは部屋じゅうの火鉢を集めた。近すぎると布が痛むので、離して置き、風を作った。ゴットフリートが庫から古い扇を三本出してきた。
「使う手が来るまで置いておくのが、庫番の仕事だ」
「何度でも仰ってください。そのたびに助かります」
老人は返事をしなかった。かわりに四本目を出してきた。
*
四日目の夕方、身頃の五分が戻った。巻き尺を当てて、寸法を読んで、私は思わず声を出しそうになった。出しかけて、マダムに睨まれて、やめた。
袖の三分はその夜のうちに戻した。裂けは二か所。袖の付け根と、裾の折り返し。どちらも、糊が固まった縁が擦れて切れたものだ。継ぎには、庫の東の端切れから経を抜いて使った。三十年前、東の荷と一緒に庫に入った布だ。
生まれ年の近い糸は、なじむ。大礼服のときに教わったことが、そのまま効いた。継ぎながら、私は裏襟のことを考えていた。
この一着に針を入れるのは、三十年ぶりに二人目だ。私は自分の印を入れなかった。入れる資格がないと思ったからではない。この一着の署名は、一つでいいと思ったからだ。
*
五日目の朝、糊を引いた。ゼイナが刷毛を持ち、私が布の端を張った。二度引く。一度目は薄く、乾かして、二度目。
「あなたの手は、張るのが上手い」
「張り板は、こちらにもありますので」
「同じ道具です。名前だけ違います」
張り終えて日陰に吊るした。あとは乾くのを待つだけだった。待つあいだ、私たちは何もできなかった。
ゼイナが、床に座り込んだ。私も座った。マダムは椅子に座り、ポレットは壁にもたれて、そのまま寝てしまった。
「リディア」
ゼイナが、初めて私の名を呼んだ。
「はい」
「東の国へ、来ませんか」
私は藍の布を見上げたまま答えた。
「行けません」
「なぜ」
「この国の繕い物の棚が、空いていませんので」
ゼイナは笑った。今度は声を出して笑った。
「同じことを、私も言われます。太妃様の箪笥が、空きませんので、と」
*
拝謁は大礼の間で行われた。衣桁が一つ、広間の中央に立てられた。着る人はいない。この一着の持ち主は、海の向こうにおられる。
藍が、掛かった。面で光っていた。高い窓から入る秋の光が、布の上を滑って、艶が波のように動いた。それは、私が最初にあの箱を開けたときに、一瞬だけ見えて、すぐに死んでしまった光だった。
ハディル侯が、衣桁の前で足を止められた。長いあいだ、動かれなかった。それから、王と王太后様のほうへ向き直って、深く頭を下げられた。
「太妃様に、なんと文を書けばよろしいか、考えておりました」
「なんと書かれますか」
「帰りました、と」
侯は顔を上げられた。
「箱のまま帰る、と書かずに済みました。……失礼を承知で、一つ伺いたく存じます」
「どうぞ」
「これは、どなたの手にございましょうか」
*
広間の話し声が、いっせいに落ちた。私は控えの列の端に立っていた。名簿にない部の頭はそういう場所に立つ。
式典局長が、一歩前へ出た。
「王宮衣装室、お直しの部」
局長の声はいつもの実務の声だった。低くて、平らで、よく通る。
「お直し係、リディア・アシュフォードの手です」
名前が、広間の高い天井に上がっていくのが分かった。三月前、この同じ広間の隣で、式部が祖母の名と私の名を読み上げた。あのときは大礼の儀の中でのことだった。
今日は儀ではない。国と国の間の、ただの問いへの答えだった。答えとして名前が出た。それだけのことが、私の膝を少し危うくした。
「もう一人」
王太后様が仰った。
「東の御方の名も、伺っておきましょう」
訳が入ってゼイナが顔を上げた。その人は通詞を見なかった。自分の言葉で、片言のまま、はっきりと言った。
「宮廷仕立師、ゼイナにございます。……糊を、引きました」
ハディル侯が、目を見開かれた。東の国の作法では、それは名乗るべきことではないのだろう。名乗ってはいけないことなのかもしれない。
だが、侯は咎められなかった。咎めるかわりに、もう一度、深く頭を下げられた。
*
拝謁が果てて、人が引いていく大礼の間で、私は衣桁の藍をもう一度見ていた。背後で足音が止まった。
振り向くと、黒の上着の人が立っていた。組合長は衣桁のほうを見ていた。近づかず、触れず、少し離れたところから、布の面を見ていた。
私は黙っていた。やがてその人は言った。
「地直しで戻したのか」
「はい」
「糊は」
「東の御方に教わりました。私は、糊を知りませんでしたので」
「……教わったのか」
「はい。かわりに、地直しをお教えしました」
ヴァレンタンは、そこで初めて、こちらを見た。見てしばらく何も言わなかった。
「あなたは」
ようやく、その人は口を開いた。
「あなたは、師に似ていない」
言い捨てて行ってしまった。私はその背中を見送った。似ていない、と言った。似ていない、と言えるということは——似ている相手を、その人が知っている、ということだ。
衣桁の藍が、風に少し揺れた。糊の張った布は、揺れるときにも音を立てる。さらさら、と、乾いた砂のような音がした。
お読みいただきありがとうございます。
似ていない、と言える人は、似ている相手を知っている人です。
次話——組合の内側で、若い一人が動き始めます。「直しに費目を認めれば、新調が減る」。
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