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第44話 名を、縫い込むのですか

 西離宮の輿入れ道具の間に、藍の御衣装が運び込まれた。春に大礼服を直した部屋だ。南向きで光が長く入る。


「宮内府から、預かり替えました」


 王太后様は、台の上の布を見ながらそう仰った。


「これは、私が贈った物です。傷んだのなら、私が引き取ります。……差配は、変わらず式典局長に」


 ハディル侯が、深く頭を下げられた。ゼイナは少し離れたところに立っていた。通詞が横についている。


「東の御方」


 王太后様が呼ばれた。


「あなたは、この一着を三十年、お手入れくださっていたと伺いました」


 訳が入ってゼイナが答えた。


「太妃様の御衣装箪笥は、宮廷仕立師の預かりにございます。私の前は、私の師が。その前は、師の師が」


「三代で」


「三代で、虫干し三十度にございます」


 王太后様はうなずかれた。


「では、あなたは、この布を私よりずっとよくご存じですね」


    *


 王太后様は椅子に浅く腰を下ろされた。


「来歴を、お話ししておきます。……いま話しておかないと、話す機会がなくなりそうですから」


 私は控えていた場所から一歩前へ出た。


「三十年前の春に、東翼が焼けました」


 部屋の空気が、少し動いた。ハディル侯は、その話をご存じないようだった。


「礼服が八着、灰になりました。宮の衣装は、そのとき、ほとんど無くなったのです」


「はい」


「その夏に、東の国から贈り物が届きました。太妃様——当時は、まだお若い妃殿下でいらしたけれど——から、織の反物が二十反」


 王太后様は指を組まれた。


「返礼をせねばなりません。国の礼です。……ですが、新調する布も、縫う手も、宮には残っていませんでした」


 私はそのときの衣装室を想像した。焼けた東翼。責を問われた筆頭針子。散った針子たち。


「私は、こう申しました。『私が着ていた一着を、あちらのお寸法に直して差し上げましょう』と」


「……直しを、国の返礼に」


「ええ。宮内府は反対しました。使い古しを贈るのは礼を欠く、と。もっともです」


 王太后様は少し笑われた。


「ですが、そのときの私には、それが精一杯の礼でした。新しい布を買う金子はあったのです。金子はあっても、縫う手がなかった。……手のないところで新調を贈るのは、私には、嘘に思えました」


 ハディル侯が、静かに言われた。


「太妃様は、この一着を、三十年、いちばん大切になさっておりました」


「そうですか」


「使い古しである、と伺ったことは、一度もございませぬ」


    *


「直したのは、誰でしょうか」


 私は訊いた。訊いてしまってから、答えを知っているような気がした。


「エディスです」


 王太后様はまっすぐに仰った。


「あの子は、そのとき、もう退宮願いを出していました。沙汰は下りていて、荷もまとめていました。……私が頼んだのです。最後に一着だけ、と」


「祖母は」


「引き受けました。一言も、恨み言を言わずに」


 私は台の上の藍を見た。三十年前の夏。焼けた宮。名を塗られようとしている針子。その人が、最後に針を入れた一着。


 それが、海を渡って、いま、私の前にある。


「……検めても、よろしいでしょうか」


「どうぞ」


    *


 私は手を洗い、拭いて、台に近づいた。仕立ての線を指でたどる。身頃はまっすぐ、脇に襠。袖は広く、袖口を絞る。東の国の形だ。


 だが、内側は違った。脇の縫い代の始末。玉結びが、布間に沈めてある。絎けは一寸に八目。王宮衣装室の作法だった。


 私は襟に手をかけた。裏襟をめくる。そこに、あった。銀糸の、小さな指貫の刺繍。親指の先ほどの大きさで、糸は褪せて、ほとんど白に近い。三十年、誰にも見られずに、襟の裏で光っていた。


 私はしばらく手を離せなかった。あの壁の羽目板の、いちばん古い端にある印と、同じものだ。焼けた大礼服の裏襟にあったのと、同じものだ。


 祖母は、宮を追われる支度をしながら、この一着に自分の名を縫い込んだ。誰にも見られないところに。


    *


「それは」


 声がした。ゼイナだった。通詞を介さず、片言のまま、台のこちら側へ回り込んでいた。


「その、印は」


「署名です」


 私は指を離して裏襟を開いたまま示した。


「王宮衣装室では、仕立てた者と直した者の名を、襟裏の札に書きます。……この方は、札ではなく、刺繍で入れました。札は外せますが、刺繍は外せませんから」


 ゼイナは身をかがめて、その小さな印を見た。長いあいだ、見ていた。それから、顔を上げた。


「名を、縫い込むのですか」


「はい」


「……こちらでは、皆が」


「皆が、そうします」


 ゼイナは通詞のほうを見た。通詞が近づこうとしたが、その人は手で止めた。自分の言葉で言うと決めたのだ、と分かった。


「東の国では、しません」


「なさらない」


「御衣装は、宮廷のものです。作った者のものではありません。……私の名も、私の師の名も、師の師の名も、どこにも、縫われておりません」


 その人は自分の手を見た。太い、節の目立つ、織る人の手だった。


「三代で、虫干し三十度。三代とも、名がありません」


 誰も口をきかなかった。王太后様は何も仰らなかった。仰らずにただ聞いておられた。


「私は」


 ゼイナが言った。


「私は、この方を、知りません。知りませんが、この方は、名を残しました。三十年、誰も見ないところに」


 その人は、裏襟の印から目を離さずに、続けた。


「見ないところに残す名は、誇りではありません。……たぶん、祈りです」


    *


 私は頭を下げた。


「ゼイナさん」


「はい」


「糊を、教えていただけませんか」


 ゼイナは少し目を細めた。


「地は」


「戻せます。試しました。庫の東の端切れを湯に通して、縮ませて、湿りを与えて、地直しで戻しました。半刻で指三本ぶんです。……身頃五分なら、五日あれば戻せます」


「艶は」


「戻せません。糊を知りませんから」


 ゼイナは腕を組んだ。組んでから、ほどいた。


「教えます」


「ありがとうございます」


「ただし」


 その人は私の顔をまっすぐ見た。


「あなたも、教えなさい。地直しを。私に」


 私は、一瞬、意味を掴みそこねた。


「……お教えして、よろしいのですか。祖母の——この国の技です」


「あなたは、隠したいのですか」


「いいえ」


「私も、隠しません」


 ゼイナは初めて笑った。笑うと、目尻に細かい皺が寄って、思っていたよりずっと若く見えた。


「私の宮廷には、名がありません。ですから、せめて、技を持ち帰ります。……持ち帰った技には、誰の名もつきません。それでも、布は直ります」


    *


 王太后様が、静かに仰った。


「日は、どれだけ要りますか」


 私は拝謁までの日を数えた。今日を入れて、七日。地直しに五日。糊を引いて、乾かして、裂けを二か所継いで、仕立ての線を戻す。


「七日で——」


 言いかけて私はゼイナを見た。ゼイナが、指を二本立てた。


「糊は、乾かすのに二日要ります」


 二日。ならば、地直しに使えるのは五日ではない。四日だ。


「……いいえ」


 私は言い直した。


「五日で、仕上げます」

お読みいただきありがとうございます。

見ないところに残す名は、誇りではなく、たぶん祈りです。


次話——五日。二つの国の手が、一つの台に並びます。


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