第43話 東の織が脆い
東翼の広間に着いたとき、台の上の藍は、ひと回り小さくなっていた。ひと目で分かる。仕立ての線が、寸法の線からずれている。襠の入り方が窮屈になり、袖が肘のところで引きつっている。
布は乾きかけていた。艶は、どこにもなかった。面で光っていたものが、糸の光だけになっていた。それは、この国のどんな絹より、みすぼらしく見えた。
「……お測りは」
私が訊くと、工房の頭が答えた。四十がらみの、腕のよさそうな男だった。声が掠れていた。
「身頃で、五分。袖で、三分」
五分。この仕立てなら、詰めではどうにもならない。ゼイナは台の反対側に立っていた。両手を体の前で組んでいた。組んだ指が、白くなるほど力が入っていた。
何も言わなかった。
*
ヴァレンタンが来たのは、その半刻あとだった。黒の上着のまま、まっすぐ台に近づいて、布を上から下まで見た。触れなかった。
「乾かせ」
工房の頭にそれだけ言った。
「組合長」
私は言った。ヴァレンタンは顔を上げた。私がここにいることを、少しも意外に思っていない顔だった。
「どなたのご指図で、洗われましたか」
工房の頭が口を開きかけた。開きかけたところに、ヴァレンタンの声が重なった。
「私だ」
頭が黙った。
「潮を三月吸っている。塩は糸を切る。抜かねば、五年で袖から裂ける。……抜くのが正しい」
「はい」
「はい?」
「塩を抜くのは、正しゅうございます」
私はそう言って台に一歩近づいた。近づいただけで触れはしなかった。触れる許しを、まだ誰からももらっていない。
「ですが、この布の張りは、糊です」
「知っている」
「糊は、水に溶けます」
ヴァレンタンは答えなかった。
「溶ければ、経と緯の詰まりが緩みます。緩めば、糸は織る前の縮れに戻ります。……縮みます」
「東の織が脆いだけだ」
彼は言った。声を荒げなかった。荒げないまま、まっすぐ言った。
「三月の船に耐えられず、水一度に耐えられん。そんな布を、国の返礼に持ち出したことが、そもそもの誤りだ」
広間から、音が引いた。ゼイナの通詞が、訳すべきかどうか迷って、口を閉じたのが見えた。訳さなくても、ゼイナには通じていた。
その人は、組んだ手をほどいて、体の脇に下ろした。下ろした手が、震えていた。言わないのではない。言えないのだ。
客人が、この国の職人の仕事に口を出せば、それは国と国の話になる。ハディル侯は最初からそれを分かっておられて、だからゼイナに「見ているだけにせよ」と命じておられる。
私は、自分の口の中が乾いているのに気づいた。
「脆いのではありません」
私は言った。
「そういう布です」
ヴァレンタンが、こちらを見た。
「布に、正しい扱いと、正しくない扱いがあります。この布にとって、水は、正しくない扱いでした。……それだけのことです」
「それだけのことで、寸法は戻らん」
「はい」
「ならば、言っても仕方あるまい」
彼は背を向けた。背を向けてから、一度だけ足を止めた。
「あなたは、名簿にない」
それが、その日、彼が私に言った最後の言葉だった。
*
ハディル侯は怒られなかった。報せを受けて広間へ来られて、藍の布をひとしきり見て、それから静かに仰った。
「三月の海を越えて、水に負けたのなら、それも布の運でございましょう」
その言い方が、いちばん応えた。怒鳴られたほうが、たぶん、みんな楽だった。
「拝謁は、いかがなさいますか」
宮内府の役人が訊いた。
「日を変えることは、できませぬ。……着られぬのであれば、箱のまま御覧に入れます。太妃様には、そのように文を書きます」
箱のまま。私は、あの潮の匂いのする長持を思い出した。三十年、太妃様の箪笥にあった一着が、海を渡って、箱のまま帰る。
拝謁まで七日だった。
*
部屋へ戻って、私は庫の端切れを盥に沈めた。朝からやりかけていた試しの続きだ。湯に通す。糊が溶ける。指で揉むと、布が縮む。目の前ではっきりと縮んだ。あの藍と同じことが、掌の上で起こった。
私は縮んだ端切れを取り出して、板の上に広げた。湿りを与える。霧を吹いて、しばらく置いて、布が均一に湿るのを待つ。
それから、指で戻す。経を一本ずつではない。掌の付け根で押しながら、縦と横に、少しずつ引く。地直しだ——布の歪みを整える下拵えのことをそう言う。
時間はかかった。半刻かけて指三本ぶんの幅を戻した。戻った。乾かす。乾いた端切れを私は灯りにかざした。
寸法は戻っている。艶は、死んだままだった。
*
地は、戻せる。糸そのものが痩せたわけではない。あのとき、私はそう見立てた。裂けた絹は針が通らなかったが、この布は違う。糸は生きている。緩んだだけだ。緩んだものは、締め直せる。
問題はそのあとだ。艶を戻すには糊を引き直さねばならない。私は糊を知らない。米糊なのか、膠なのか、両方なのか。濃さは。引く回数は。乾かし方は。張り板に張るのか、宙で干すのか。
どれ一つ知らない。知っている人はこの城に一人だけいる。その人は、いま、口を開くことを禁じられている。
私は端切れを二枚並べて、しばらく見ていた。縮んだままのものと、戻したもの。半分だ。私にできるのは、半分だけだ。
半分では、一着にならない。
*
その夜遅く、西離宮から使いが来た。文は短かった。
『明朝、参られたし。東の御方も、お呼びしております』
署名は王太后様だった。私は文を畳んで燭台の芯を切った。半分と、半分。明日、それが同じ部屋に並ぶ。
布を畳む音が、ひとつ。今夜は、いつもより長く鳴った。
お読みいただきありがとうございます。
私にできるのは、半分だけです。半分では、一着になりません。
次話——西離宮。裏襟をめくったとき、三十年前の署名が出てきます。
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