第41話 潮の匂いのする箱
東の国の船は秋の初めに着いた。王都まで三日。使節の行列が城門をくぐった日は、朝から城下の人出が多かった。異国の色を見るというのは、それだけで祭りに近い。
私たちは大礼の間の隅に控えていた。支度も出迎えも組合の受け持ちだったから、お直しの部にできることは、立ち会うことだけだった。
使節長はハディル侯といった。五十がらみで、背が高く、声が低い。王国の言葉を話される。
「三月の航海にございました。潮のにおいを、宮まで持ち込むご無礼をお許しください」
その言い方が、ずいぶん率直だったので、私は少し好ましく思った。随行の中に女人がひとりいた。
三十代の半ばだろうか。装いは他の随行者と同じ紺で、髪をきつく結い上げている。両手の指が、遠目にも分かるほど太い。
紹介があった。
「宮廷仕立師、ゼイナにございます」
その人は名乗るとき、通詞を介した。頭は下げたが、目は下げなかった。
*
御衣装の箱が広間に運ばれたのは、その日の午後だった。黒い漆の長持で四隅に金具が打ってある。運んできた者が二人がかりで、床にそっと置いた。
蓋が開いたとき、私は思わず息を止めた。匂いだった。潮の匂いがした。
「……三月、船倉に」
私が思わず声を出すと、ハディル侯が頷かれた。
「油紙で三重に包み、桐の箱に入れ、さらにこの長持に。……それでも、海は入ります」
白い薄紙を外していく。現れたのは深い藍の一着だった。仕立ては、こちらのものとまるで違った。身頃がまっすぐで脇に襠が入っている。袖は広く、袖口だけを絞る。裾が長い。
だが、そんなことより先に、目に入るものがあった。艶だ。艶が、まだらに死んでいた。
*
「触れても、よろしいでしょうか」
私が訊くと、ハディル侯は通詞に何か言われた。ゼイナが短く答え、通詞が訳した。
「手を洗ってから、と申しております」
「もっともです」
私は控えの間で手を洗い、水気をきちんと拭いてから戻った。ゼイナはその手順を、最初から最後まで見ていた。
布に指を触れる。張りがある。こちらの絹とは、張りの出方がまるで違った。糊だ。
「……糊を引いておられるのですね」
通詞を介さず、ゼイナが顔を上げた。私はもう一度、ゆっくり言った。
「織り上げてから、糊を引いて、張っておられる。糊が、この布の張りそのものです」
ゼイナが、通詞に何か短く言った。訳が返ってきた。
「張り絹、と申します。経に生糸、緯に練った絹。……よく分かりましたね、と」
「触れば分かります。……こちらの絹は、糸そのものの艶で光ります。この布は、面で光っています」
肩から裾へ手のひらを滑らせた。途中で指が止まる。固い。筋になっている。潮気を吸って糊が動いたのだ。動いた糊は、乾くときに寄る。寄ったところだけが板のようになり、寄らなかったところは張りを失って垂れる。
まだらに死んだ艶はそういうことだった。
「裂けは、二か所です」
私は袖の付け根と、裾の折り返しを指した。
「ここと、ここ。糊の固まったところの縁が、擦れて切れています」
ハディル侯が、静かに息を吐かれた。
「……三十年、太妃様の御衣装箪笥に納められておりました。年に一度、虫干しのときだけ広げて。誰も傷めてはおりませぬ。海だけが、傷めました」
三十年。私はその数字を胸のうちで受け止めた。この一着を仕立てた誰かは、三十年前にこの布を扱っていることになる。
「拝謁は、いつでございましょう」
控えていた宮内府の役人が答えた。
「十二日後にございます」
*
修復は組合が請けた。通達どおりだった。宮廷の御用は登録工房に限る。異国の御衣装であっても、宮廷の御用であることに変わりはない。
セラファンが丁寧に腰を折って、預かりの目録を読み上げた。読み上げる声は、正確で、澱みがなかった。
私は、そのあいだじゅう、藍の布を見ていた。見ることしかできなかった。
*
目録が済んで、人が動き始めたとき、ゼイナが私のそばへ来た。通詞は連れていなかった。その人は私の手を見た。応接の間でヴァレンタンがしたのと同じ見方だった。左の人差し指の側面と、右の中指の第一関節。
それから、藍の布のほうを見て、それから、片言の王国語で言った。
「東の織は、こちらの針では、継げません」
声が低かった。喧嘩を売る調子ではなかった。事実を言っている調子だった。
「……はい」
「糊を知らねば、地が読めません。地が読めねば、針の落としどころが分かりません。……あなたは、糊があると分かりました。分かることと、扱えることは、別です」
正しかった。私は張り絹を扱ったことがない。触ったのも今日が初めてだ。
「はい。仰るとおりです」
ゼイナは少し意外そうな顔をした。言い返されると思っていたのだろう。
「……あなたは」
「リディア・アシュフォードと申します。王宮衣装室、お直しの部の者です」
ゼイナは、私の名を口の中で一度繰り返して、それきり何も言わずに行ってしまった。
*
その夜、部屋へ戻ってから、私はずっと指先のことを考えていた。面で光る布。糊で張る布。私の手は糸の艶で光る布しか知らない。祖母から教わったのも、この国の布ばかりだった。
継げません、と言われて、腹は立たなかった。腹の代わりに別のものが立った。私は帳面を開いて今日見たものを書いた。張り絹。糊が張り。潮で糊が動く。動いた糊は寄る。寄ると板になる。裂けは固まりの縁。
書きながら、手が少し速くなっているのが、自分で分かった。燭台の芯を切る音が、ひとつ。今夜はまだ寝られそうになかった。
お読みいただきありがとうございます。
分かることと、扱えることは、別です。——そのとおりでした。
次話——修復は組合の手に。お直しの部にできるのは、回廊の窓から見ていることだけです。
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