第40話 宮の徒弟
私は会館へもう一度書状を出した。願いは一つだけ書いた。第二の試験を、直しで受けさせていただきたい。生地は組合から出していただかなくて結構です。傷んだ一着をご用意ください。三十日で直します。検分は、どなたにお見せいただいても構いません。
返書は五日で来た。文はもっと短かった。
『規約に、直しの検分の定めなし。よって受け付けず』
署名はセラファンだった。組合長の名ではなかった。
「逃げたな」
局長は返書を裁ち台に置いてそう言った。
「逃げたのでしょうか」
「答えを書けば、書いた者が縛られる。理事の名で断れば、組合長は何も言っていないことになる」
「……では、まだ言っていないのですね」
「そうだ。そこは覚えておけ」
*
局長が宮内府へ通い始めたのは、その翌日からだった。朝に出て、昼に戻り、また出る。夕方に部屋へ寄ることもあれば、寄らない日もあった。寄らない日は、たいてい書き付けの束が増えていた。
「どちらへ」
三日目の夕方、私はとうとう訊いた。
「帳の話だ」
「帳の」
「衣装修繕費のときと同じだ。欄がなければ、額は入らん。……位も同じだ。位を書く帳がなければ、位は生まれん」
その言い方で、私はようやく、白い紙に引かれた一本の線の意味が分かった。
「新しい帳を、お作りになるのですか」
「作る。『宮廷衣装徒弟名簿』だ」
*
中身は七日で形になった。位の名は『宮廷衣装徒弟』。宮の中でだけ通用する。年季は宮の帳で数える。
読み書きの定めはこうなった。
『宮の帳面を読み、書けること』
「二十条の書き写しではないのですね」
「あれは書役を選ぶ試験だ。針子の試験ではない」
局長は起案の写しを、指一本で角を揃えて置いた。
「宮の針子に要るのは、品と寸法と代金を帳に正しく書けることだ。それ以上は要らん。要らんものを課すのは、選ぶためではなく、落とすためだ」
そして、手の試験。
『技倆の検分は、直し一件をもって行う。検分は、お直しの部の頭および筆頭衣装係が立ち会う』
私はその一行を三度読んだ。直しで、受けられる。
「……局長」
「言うな」
「まだ何も」
「顔に出ている。そなたは帳の話をすると、いつも同じ顔をする」
*
裁可が下りたのはそれから四日後だった。私は、裁可が下りたことしか知らされなかった。知らされなかったぶんを教えてくれたのは、ギヨムだった。廊下で会って開口一番にこう言った。
「あんた、局長に何か言ったか」
「何か、と申しますと」
「宮内府の広間で、うちの隊の奴が立ち番してたんだよ。……局長、卿の前で言ったらしいぜ。『これが組合と事を構えることになるなら、その責は私が負う。式典局長の職をもって』」
私は廊下の途中で足を止めた。
「……職を」
「担保に出したってことだ。まあ、あの人は言うだけじゃなくて、ほんとに退くだろうよ。ああいう顔してる」
ギヨムは肩をすくめて行ってしまった。私はしばらく、そこに立っていた。この五か月、私は何度もこの人に守られてきた。査問で、包囲で、閉鎖の勧告で。そのたびに気づいてはいた。気づいたうえで、お礼を言って、また針を持った。
今度は気づくのが遅れた。遅れたぶん、胸のあたりが、うまく畳めない布のようになった。
*
その晩、局長は何事もなかったような顔で部屋へ来た。
「明日、名簿を起こす」
「はい」
「……なんだ、その顔は」
「別に」
「そなたは嘘が下手だな」
「局長ほどではありません」
私は針箱を開けて裁ち台の上を片づけた。片づけながら、言った。
「職を担保になさったと伺いました」
局長は、書き付けの束の角を揃えかけて、途中で止めた。
「誰だ」
「近衛です」
「あの隊は口が軽い」
「軽くて助かりました」
私は布を畳んだ。畳んでから、顔を上げた。
「局長。私は、直せない物は直せないと申し上げます。それが仕事ですから」
「知っている」
「ですから、これも申し上げます。……局長の職は、直せません。なくなってしまったら、私には戻せません」
局長はしばらく黙っていた。それから、いつもの低い声で言った。
「なくならん。理屈が通っている」
「理屈が通らなかった夜も、私は知っています」
「……そうだな」
燭台の芯が鳴った。
「では、こう言い直そう」
局長は束の角を今度こそ揃えた。
「そなたの針は、王宮の備品ではないと言った。私の職も、宮内府の備品ではない。使い方は、私が決める」
*
翌朝、式典局の帳面が一冊、お直しの部に届いた。表紙にまだ何も書かれていない。局長が墨を磨り、書役ではなく自分の手で、表紙に題を入れた。
『宮廷衣装徒弟名簿』
最初の頁を開く。罫だけの、白い頁だった。
「ポレット」
私が呼ぶと、ポレットは布巾で手を三回拭いてから来た。三回拭くのは、この子が緊張したときの癖だ。
「一行目です。自分で書いてください」
「……あたしが、ですか」
「あなたが第一号です」
ポレットは筆を持って、しばらく動かなかった。
「リディアさま。あたし、十一条で止まりました」
「はい」
「二十条のうちの、十一条です」
「はい」
「それでも、いいんですか」
私はこの子の手元の高さまで屈んだ。
「ポレット。あなたが半刻で書けなかったのは、規約です。あなたが半刻で読めるのは、帳面です。品と、寸法と、お代。……それは、もう毎日書いています」
ポレットは筆を握り直した。一行目に名前を書いた。
『ポレット』
曲がっていた。けれど、同じ癖で曲がっていた。読める字だった。書き終えて、ポレットは筆を置いて、両手で目を押さえた。声は出さなかった。
コリンヌが鼻をすすり、アネットが盥のほうを向いた。
*
「ただし」
局長は帳面を閉じながら言った。言い方が、いつもより硬かった。
「この位は、城の中でしか通らん」
「はい」
「この子が城の外で針を業とするときには、やはり組合の徒弟証が要る。……そこは、まだ何も直っていない」
「はい」
私は閉じた帳面の表紙を見た。組合の名簿の、最初の頁の三行目に、家名のない四文字がある。
宮の名簿の、最初の頁の一行目に、家名のない四文字がある。同じ長さの名前が、二つの帳の最初に並んだ。片方は消された名で、片方は、これから増えていく名だ。
外に道を作った。作っただけだ。作った道は、まだ城門の内側で終わっている。
*
夕方、宮内府から報せが届いた。東の国の使節船が、港を出た。ハディル侯と、宮廷仕立師ゼイナ。そして、直されぬまま眠っていた礼服が一領。
着くのは秋の初め。私は帳面を棚に立てて、その日の繕い物の残りを数えた。七件。夜のうちに四件は片づく。
糸を通す音が、ひとつ。ポレットの手元からも同じ音がした。
お読みいただきありがとうございます。
外に道を作りました。作った道は、まだ城門の内側で終わっています。
次話——秋の初め。東の国の船が着きます。箱から出てくるのは、三十年ぶりに海を渡った一領です。
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