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第39話 兄弟子

 縫製の広間は人が引けると広くなる。昼間は二十を超える裁ち台が肩を寄せ合っているように見えるのに、夜になると、台と台のあいだの床がやけに目につく。


 窓際三番の台に、マダム・ジョゼットが座っていた。コリンヌが長くいた台だ。


「その台は」


「空いていますから」


 マダムは膝の上で手を組んでいた。四角い、硬い手だ。この人の手を、私はいつもきれいだと思っている。


「わたくしが入宮しましたのは、十五のときです」


「はい」


「東翼が焼けた、次の年でした」


 私は向かいの台の端に腰を掛けた。


「入りましたときには、もう『銀の指貫』の名は、口にしてはいけないことになっておりました」


「はい。……以前、伺いました」


「ええ。誰の口から、そうなったのかは申し上げませんでした」


 燭台の芯が、小さく鳴った。


「あの人です」


    *


「ヴァレンタンさんは、そのころ、衣装室の針子でした。二十代の終わりで、若いのに、もう若手の頭でした」


「祖母の——」


「弟子です。いちばん上の弟子でした。あの方が筆頭でいらしたころの、いちばん近くにいた人です」


 私は応接の間で見た手を思い出していた。左の人差し指の側面と、右の中指の第一関節。私と同じところが硬くなっていた手。


 あれは、同じ稽古をした手だ。


「火事のあと、あの人は残りました。師匠が宮を出ても、四年ばかり残って、若い者を仕込みました。……わたくしも、仕込まれたひとりです」


「どのように」


「新を縫え、と」


 マダムは、そこで一度だけ、指の関節を鳴らした。


「毎朝そう言われました。新を縫え。直しを覚えるな。直しの目を持つな。直しの上手い針子は、いちばん先に焼かれる、と」


 焼かれる。その言葉が、この広間の夜に、ずいぶん重く落ちた。


「わたくしは十五でした。何を言われているのか、半分も分かりませんでした。分からないまま、言われたとおりにしました」


「……マダム」


「上手くいきました」


 マダムは顔を上げた。笑っている顔ではなかった。


「新を縫って、腕を上げて、二十九で筆頭になりました。あの人の言うとおりにして、わたくしはここに座っています」


    *


 私はうまく言葉を選べなかった。


「祖母の名を、口にしてはいけないと言ったのも」


「あの人です。……ですが、あれは意地悪ではありませんでした。あのころ、宮の台帳から名が塗られておりました。仕立て札も抜かれておりました。名前を出せば、出した者が咎められる。そういう空気でした」


「守るために、消したのですか」


「そうです。……そうだと、わたくしはずっと思っておりました」


 マダムは言葉を切って机の木目を見た。


「あの人は、四年目の春に宮を出ました。出ていく日に、わたくしに一言だけ言いました」


「なんと」


「『ここには、直しの居場所は作れん。外に作る』」


 私は息を吸った。


「そして、組合を」


「興しました。……作った、と言えばよろしいのでしょうね。仕立て屋の寄り合いなど、それまでは町ごとにばらばらにあっただけです。あの人が値表を作り、名簿を作り、徒弟の年季を決めました」


「直しの位だけを、外して」


「外して」


 マダムは、そこで初めて、声を落とした。


「二十六年、わたくしはそれを、あの人が直しを憎んだのだと思っておりました」


「違うのですか」


「今日、名簿を見るまではそう思っておりました」


    *


 マダムは膝の上の手をほどいて、両手を裁ち台に置いた。


「最初の頁の、三行目です」


「はい」


「あの人が作った名簿の、いちばん最初の頁に、師匠の名が載っておりました」


 私はあの家名のない四文字を思い出した。ほかの名と同じ書役の手で、特別なところは何もなく書かれていた。


「祖母は、そのとき市井におりました。宮を出て、五年ばかり経っていたはずです」


「市井の針子として、名を連ねられたのでしょう。……いいえ、違いますね」


 マダムは首を振った。


「連ねたのは、あの人です。師匠がご自分で織物町まで足を運んで、名を書かれたとは思えません。あのころの師匠は、人前に出られる立場ではありませんでした」


 書役の手で書かれていた、という意味が、そこでようやく私の中で像を結んだ。あれは本人の筆跡ではなかった。


「宮が消した名を、あの人は、自分の名簿の最初の頁に書き入れたのです」


「……はい」


「そのうえで、直しを職から外した」


 私は、応接の間で背を向けた人の言葉を思い返していた。直しは、職ではありません。職とは、名と位のあるものです。


 名は残す。位は与えない。その二つを、同じ人が、同じ年に決めた。


    *


「腑に落ちません」


 私が言うと、マダムは初めて、少しだけ笑った。


「落ちませんでしょう」


「はい」


「わたくしも、二十五年落ちておりません。……ですから、あなたが行くと仰ったとき、ついて行きました」


「立ち会いのお願いだと申し上げましたが」


「立ち会いたかったのは、わたくしのほうです」


 マダムは立ち上がって、窓際三番の台の布を、きちんと畳んだ。畳み方が、うちのアネットとよく似ていた。


「リディア・アシュフォード」


 この人が私の名を呼ぶのを、私は初めて聞いた。


「はい」


「あの人を、憎まないでください。……いいえ。憎んでも構いません。ですが、憎むだけで終わらせないでください」


「マダム」


「二十六年、わたくしはそれで終わらせました。おかげで、うまくいきました。うまくいったぶんだけ、直しの目を持った若い針子が、この広間からいなくなりました」


 燭台を持ってマダムは戸口へ歩いた。


「借りは、踏み倒さない主義です。……今度は、貸しではなく、頼みごとです」


    *


 部屋へ戻ると、局長がいた。燭台が一本だけ点いていて、裁ち台には規約と、値表と、割り振りの一覧が並べてあった。


「遅かったな」


「広間におりました」


「聞いたか」


「はい」


 私は座って規約を引き寄せた。第十七条。第十八条。ただし書き。何度読んでも、入口は同じところで閉じている。


「局長」


「言うな。私も、そこを三度読んだ」


 局長は一覧の紙を裏返して、白い面を上にした。それから筆を取った。


「組合の中に道がないなら」


 白い紙に線が一本引かれた。


「外に作る」

お読みいただきありがとうございます。

名は残す。位は与えない。——その二つを、同じ人が、同じ年に決めました。


次話——組合の外に、道を一本引きます。ポレットが、もう一度名簿に名前を書きます。


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