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第38話 直しは、職ではありません

 会館へ伺うにあたって、私はマダム・ジョゼットに同行をお願いした。


「なぜ、わたくしが」


「衣装室の筆頭でいらっしゃいますから。宮の針の代表として、立ち会っていただきたいのです」


 マダムは縫製の広間の裁ち台に手を置いたまま、しばらく返事をしなかった。


「……分かりました」


 その返事までの間が、いつもより長かったことを、私はあとで思い出すことになる。


    *


 王都仕立て組合の会館は、織物町の真ん中にあった。石造りの、飾りの少ない建物だった。玄関を入ると広間になっていて、正面の壁一面が棚だ。厚い帳面が、年ごとに背を並べている。


「徒弟名簿にございます」


 案内のセラファンが言った。


「組合を興しました年から、徒弟に上がった者の名を、すべて」


「興った年から、ひとりも欠かさず」


「さようです。名を残すのが、位というものにございますので」


 私は、その言葉を胸の中でひとつ、置いた。


    *


 応接の間は二階の奥だった。窓が高く、光がまっすぐ落ちる部屋だった。仕立ての検分をするための部屋なのだと、入ってすぐに分かった。


 その光の中にその人は立っていた。六十には少し届かないだろうか。銀髪を短く刈って黒の上着を着ている。仕立ての良い黒だった。良すぎず、悪すぎず、着ている人がいちばんよく分かる仕立てだ。


「組合長のヴァレンタンです」


 声が低かった。


「王宮衣装室、お直しの部、リディア・アシュフォードでございます」


「存じています」


 彼は椅子を勧めなかった。私も座らなかった。


「筆頭衣装係の、ジョゼットにございます」


 マダムが名乗ったとき、ヴァレンタンの視線が一度だけそちらへ動いた。動いてすぐ戻った。


「用件を」


「規約に、直しの位を加えていただきたく参りました」


「加えません」


 早かった。考える間がなかった。用意してあった答えだ。


「理由を、伺えますか」


「直しは、職ではありません」


 彼はそう言って、初めてこちらを正面から見た。


「職とは、名と位のあるものです。値表に値があり、名簿に名があり、徒弟が年季を勤める。それが職です。直しには、そのどれもない」


「では、直す者は何なのでしょう」


「手先の器用な者です」


 私は息を一つ入れた。声を荒げるのは、いつも敵側だ。私が荒げてしまえば、この人と同じ側に立つことになる。


「名なら、あります」


「ほう」


「王宮衣装室では、直した者の名を、襟裏の仕立て札に書きます。仕立て年と、縫い手の名を。……新調のときだけではありません。直したときにも書きます」


 ヴァレンタンは答えなかった。


「三十年前の先王妃様の大礼服にも、署名がございました。裏襟に、指貫の刺繍が」


 窓の高いところで光が少し動いた。彼の顎の線が、わずかに変わった。それだけだった。


「宮の中の習いでしょう」


「はい。宮の中の習いです」


「ここは宮ではない」


 ヴァレンタンは机の上の紙を一枚取り、指で角を揃えた。局長と同じ所作だった。似ているのに、まったく違って見えた。


「あなたは、大礼の御衣装を直した方だ。腕は聞いています。……手を見せなさい」


 思いがけなかったので、私は素直に両手を出した。彼は近づいて私の手を見た。触れはしなかった。左の人差し指の側面と、右の中指の第一関節。糸と針が当たり続けたところだけを、順に見た。


 見終えて彼は一歩下がった。


「よい手です」


「ありがとうございます」


「だからこそ、新調をなさい」


 彼は机に戻って私に背を向けた。


「第二の試験を受ければ、あなたは徒弟証を得る。工房として名簿にも載る。三十日で一領——あなたの手なら、造作もない」


「その一着は、誰が着るのでしょう」


「検分のあと、組合が引き取ります」


「着る人のいない一着を仕立てて、私は位をいただくのですね」


 背中が、止まった。


「……お引き取りください」


「組合長」


「引き取りなさい」


 声は荒れていなかった。荒れていないのに、部屋の空気が硬くなった。私は一礼した。マダムも一礼した。マダムの一礼は私より深かった。


    *


 階段を下りて玄関の広間へ出た。棚の帳面の背が、年の順に並んでいる。いちばん右が今年。いちばん左が、組合が興った年だ。


 私は左端の一冊の前で足を止めた。


「拝見しても、よろしいですか」


 見送りに立っていたセラファンは、少しも渋らなかった。


「名簿は、どなたにもご覧いただくものにございます。……名を残すのが、位でございますので」


 彼はその一冊を棚から抜いて、私の前で開いた。最初の頁。設立の年に、組合に名を連ねた者たちの一覧。


 一行目、二行目——三行目に、その名はあった。


 『エディス』


 私は動かなかった。文字は、ほかの名と同じ書役の手で書かれていた。特別なところは何もなかった。ただ、家名のない、名前だけの四文字だった。


「……この方は」


「私が組合に入りますより前の名簿にございますので、存じません」


 セラファンは正直だった。正直に何も知らなかった。私は頁から目を上げた。マダムが、こちらを見ていた。


 顔から色が引いていた。私が棚のいちばん左の帳面の前に立っているのを見て、ではない。開かれた頁の三行目を見てだった。


 マダムは名簿を見て、それから、二階へ続く階段のほうを見た。その順番が、何よりの答えだった。


「マダム」


「……」


「ご存じなのですね」


 マダムは答えなかった。答えないまま、先に立って玄関を出た。私は名簿を閉じ、セラファンに礼を言って、あとを追った。


    *


 馬車が織物町を抜けて、城下の広い道に出るまで、マダムは窓の外を見ていた。石畳の音が変わり、王宮の門が見えてきたころ、その人はようやく口を開いた。


「……お話しします」


「はい」


「今夜、広間へいらしてください。人が引けたあとに」


 マダムは膝の上で両手を組み直した。硬い、四角い手だった。


「三十年前の衣装室の話です。……あの人は、あそこにいました」


 馬車の車輪が、門の敷居を越えて鳴った。私は、名簿の三行目の、家名のない名前を思い出していた。

お読みいただきありがとうございます。

名を残すのが位である、と組合は言います。——ならば、あの名簿の三行目は、何なのでしょう。


次話——マダム・ジョゼットが、三十年前の衣装室の話をします。


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