第37話 十一条で、刻限
半月、ポレットは字を書いた。
朝は水を汲む前に十枚。昼は繕いの合間に、糸を通しながら口の中で唱えて。夜は燭台が短くなるまで。
私が教えたのは、覚え方ではなく、運び方だった。
「字も、運針です。速い人は手を速く動かしているのではありません。戻る回数が少ないのです」
「戻る」
「一画ごとに筆を止めて、次を考える。そこで戻っています。三画目まで先に決めてから、書き始めてください」
ポレットの字は、五日で目に見えて変わった。
曲がっているのは相変わらずだった。けれど、曲がり方が揃ってきた。同じ癖で曲がる字は、読める。
「リディアさま。あたし、いま、一行を、こう」
「速くなりました」
「速くなりました!」
その晩、コリンヌが差し入れの桃を持ってきて、アネットが紙を裁つ手伝いをした。狭い部屋がもっと狭くなって、私は少しだけ、この半月が終わらなければいいと思った。
*
試験は組合会館の一室で行われた。
白い漆喰の部屋に、机が十二。受ける者は、たいてい十七、八の若い男だった。工房の徒弟だ。皆、袖に糸くずをつけている。
女は三人しかいなかった。そのうち二人が、私とポレットだった。
立ち会いにセラファンがいた。相変わらず丁寧に腰を折る。
「ようこそお越しくださいました」
「お世話になります」
「本日は、書き取りにございます。規約の第一条より第二十条までを、写していただきます。刻限は半刻」
机の上に砂時計が一つずつ置かれた。
私は自分の机につき、隣の列のポレットを見た。ポレットは背を伸ばして、筆を三本、順番に並べ直していた。
書役の合図で砂が落ち始めた。
*
書き写すだけの仕事だった。
文字は覚えている。手も慣れている。私は淑女教育で、書状の代筆を数え切れないほどやらされた。あのころは何の役にも立たない稽古だと思っていた。
十五条を過ぎたあたりで、隣の列から、紙をめくる音が聞こえた。
ポレットの音だった。速い。思っていたよりずっと速い。
私は二十条を書き終え、筆を置いた。砂はまだ三分の一残っていた。
顔を上げると、ポレットはまだ書いていた。唇を噛んで肩に力が入っている。
私は砂時計を見た。
落ちるのが、速い。半刻というのは、こんなに短かっただろうか。
*
砂が落ちきったとき、ポレットの筆は、十一条の途中で止まった。
書役が一枚ずつ紙を集めていく。ポレットの前で書役は少し手を止めた。
「……字は、合っています」
それは慰めではなく、報告だった。書役は淡々と紙を重ねて次の机へ行った。
ポレットは、自分の紙が積まれた紙束の中に消えていくのを見ていた。
部屋を出て、廊下の突き当たりの窓のところで、ようやく口を開いた。
「十一条まで、書けました」
「はい」
「二十条のうちの、十一条です」
「はい」
「……半分と、ちょっとです」
ポレットは、自分の右手を持ち上げて、指の腹を見た。糸を扱う指だ。硬くなっているところの位置が、私と同じだった。
「あたし、この手、速いと思ってたんです。縫うときは、誰よりも速いんです。……紙は、速くないんですね」
「布と紙は、別の仕事です」
「別の仕事で、落ちました」
私は何か言おうとしてやめた。
言えることがなかったのではない。言えば、この子の悔しさを、私の言葉で薄めてしまう気がした。
悔しさはこの子のものだった。
*
私の結果はその場で出た。
合格だった。
セラファンは丁寧に、本当に丁寧に、そのことを告げた。
「おめでとうございます。第一の試験は、通っておられます」
「ありがとうございます。……第一の、と仰いましたか」
「はい。特例の試験は、二段にございます」
彼は懐から規約を出して、第十八条の続きを開いた。私が読み落としていた、ただし書きの部分だった。
『第二の試験は、技倆をもって行う。新調にて一領を仕立て、組合の検分を受くべし』
「第二は、手にございます」
「新調で、一着」
「さようです。生地は組合が出します。期日は三十日。仕立て上がりを、会館で検分いたします」
私はその条文をもう一度読んだ。
「直しでは、受けられませんか」
セラファンは驚いた顔をしなかった。訊かれることが分かっていた顔だった。
「直しの試験は、ございません」
「なぜでしょう」
「値表にない仕事は、試験にもございません」
廊下の窓から、織物町の音が入ってきた。荷車と、犬と、どこかの工房の裁ち鋏。
「私は、新調ができないわけではありません」
「存じております。衣装室の御方ですから」
「では、受けます。……と申し上げたら、私は徒弟証をいただけます」
「いただけます」
「そして、お直しの部は名簿に載ります」
「載ります」
セラファンは規約を閉じた。閉じる手が、やはり丁寧だった。
「ただ、載るのは『新調の一着を仕立てられる工房』としてにございます。……お直しの部が、直しの工房として名簿に載ることは、この規約では、ございません」
私は、そのとき初めて、この人の困った顔の意味が分かった気がした。
この人は規約を守っている。守っている人に、規約の外の話は通じない。
*
帰りの馬車で、ポレットは一言も喋らなかった。
城門をくぐったところで、ようやく私のほうを見た。
「リディアさま、受かったんですよね」
「一つ目は」
「じゃあ、二つ目も受けてください。あたし、手伝います。新調でも、なんでも」
「ポレット」
「そうしたら、お直しの部、名簿に載るんですよね」
「……載ります」
私は膝の上で手を組んだ。
「載りますが、直しの工房としてではありません。新しく仕立てられる工房として、載ります」
「同じじゃないんですか」
「同じではありません」
馬車が石畳を鳴らした。
私は、値表の最後に自分で書いた一行を思い出していた。見立て、銀貨一枚。直せないと申し上げる仕事にも、値がある。
あの一行はまだ城の中にしかない。
「ポレット」
「はい」
「明日、会館へ伺います」
「え」
「組合長に、直に」
お読みいただきありがとうございます。
値表にない仕事は、試験にもありません。——入口が、閉じているのです。
次話——組合長ヴァレンタン。玄関の名簿の、いちばん古い頁を開きます。
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