↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
37/52

第37話 十一条で、刻限

 半月、ポレットは字を書いた。


 朝は水を汲む前に十枚。昼は繕いの合間に、糸を通しながら口の中で唱えて。夜は燭台が短くなるまで。


 私が教えたのは、覚え方ではなく、運び方だった。


「字も、運針です。速い人は手を速く動かしているのではありません。戻る回数が少ないのです」


「戻る」


「一画ごとに筆を止めて、次を考える。そこで戻っています。三画目まで先に決めてから、書き始めてください」


 ポレットの字は、五日で目に見えて変わった。


 曲がっているのは相変わらずだった。けれど、曲がり方が揃ってきた。同じ癖で曲がる字は、読める。


「リディアさま。あたし、いま、一行を、こう」


「速くなりました」


「速くなりました!」


 その晩、コリンヌが差し入れの桃を持ってきて、アネットが紙を裁つ手伝いをした。狭い部屋がもっと狭くなって、私は少しだけ、この半月が終わらなければいいと思った。


    *


 試験は組合会館の一室で行われた。


 白い漆喰の部屋に、机が十二。受ける者は、たいてい十七、八の若い男だった。工房の徒弟だ。皆、袖に糸くずをつけている。


 女は三人しかいなかった。そのうち二人が、私とポレットだった。


 立ち会いにセラファンがいた。相変わらず丁寧に腰を折る。


「ようこそお越しくださいました」


「お世話になります」


「本日は、書き取りにございます。規約の第一条より第二十条までを、写していただきます。刻限は半刻」


 机の上に砂時計が一つずつ置かれた。


 私は自分の机につき、隣の列のポレットを見た。ポレットは背を伸ばして、筆を三本、順番に並べ直していた。


 書役の合図で砂が落ち始めた。


    *


 書き写すだけの仕事だった。


 文字は覚えている。手も慣れている。私は淑女教育で、書状の代筆を数え切れないほどやらされた。あのころは何の役にも立たない稽古だと思っていた。


 十五条を過ぎたあたりで、隣の列から、紙をめくる音が聞こえた。


 ポレットの音だった。速い。思っていたよりずっと速い。


 私は二十条を書き終え、筆を置いた。砂はまだ三分の一残っていた。


 顔を上げると、ポレットはまだ書いていた。唇を噛んで肩に力が入っている。


 私は砂時計を見た。


 落ちるのが、速い。半刻というのは、こんなに短かっただろうか。


    *


 砂が落ちきったとき、ポレットの筆は、十一条の途中で止まった。


 書役が一枚ずつ紙を集めていく。ポレットの前で書役は少し手を止めた。


「……字は、合っています」


 それは慰めではなく、報告だった。書役は淡々と紙を重ねて次の机へ行った。


 ポレットは、自分の紙が積まれた紙束の中に消えていくのを見ていた。


 部屋を出て、廊下の突き当たりの窓のところで、ようやく口を開いた。


「十一条まで、書けました」


「はい」


「二十条のうちの、十一条です」


「はい」


「……半分と、ちょっとです」


 ポレットは、自分の右手を持ち上げて、指の腹を見た。糸を扱う指だ。硬くなっているところの位置が、私と同じだった。


「あたし、この手、速いと思ってたんです。縫うときは、誰よりも速いんです。……紙は、速くないんですね」


「布と紙は、別の仕事です」


「別の仕事で、落ちました」


 私は何か言おうとしてやめた。


 言えることがなかったのではない。言えば、この子の悔しさを、私の言葉で薄めてしまう気がした。


 悔しさはこの子のものだった。


    *


 私の結果はその場で出た。


 合格だった。


 セラファンは丁寧に、本当に丁寧に、そのことを告げた。


「おめでとうございます。第一の試験は、通っておられます」


「ありがとうございます。……第一の、と仰いましたか」


「はい。特例の試験は、二段にございます」


 彼は懐から規約を出して、第十八条の続きを開いた。私が読み落としていた、ただし書きの部分だった。


 『第二の試験は、技倆をもって行う。新調にて一領を仕立て、組合の検分を受くべし』


「第二は、手にございます」


「新調で、一着」


「さようです。生地は組合が出します。期日は三十日。仕立て上がりを、会館で検分いたします」


 私はその条文をもう一度読んだ。


「直しでは、受けられませんか」


 セラファンは驚いた顔をしなかった。訊かれることが分かっていた顔だった。


「直しの試験は、ございません」


「なぜでしょう」


「値表にない仕事は、試験にもございません」


 廊下の窓から、織物町の音が入ってきた。荷車と、犬と、どこかの工房の裁ち鋏。


「私は、新調ができないわけではありません」


「存じております。衣装室の御方ですから」


「では、受けます。……と申し上げたら、私は徒弟証をいただけます」


「いただけます」


「そして、お直しの部は名簿に載ります」


「載ります」


 セラファンは規約を閉じた。閉じる手が、やはり丁寧だった。


「ただ、載るのは『新調の一着を仕立てられる工房』としてにございます。……お直しの部が、直しの工房として名簿に載ることは、この規約では、ございません」


 私は、そのとき初めて、この人の困った顔の意味が分かった気がした。


 この人は規約を守っている。守っている人に、規約の外の話は通じない。


    *


 帰りの馬車で、ポレットは一言も喋らなかった。


 城門をくぐったところで、ようやく私のほうを見た。


「リディアさま、受かったんですよね」


「一つ目は」


「じゃあ、二つ目も受けてください。あたし、手伝います。新調でも、なんでも」


「ポレット」


「そうしたら、お直しの部、名簿に載るんですよね」


「……載ります」


 私は膝の上で手を組んだ。


「載りますが、直しの工房としてではありません。新しく仕立てられる工房として、載ります」


「同じじゃないんですか」


「同じではありません」


 馬車が石畳を鳴らした。


 私は、値表の最後に自分で書いた一行を思い出していた。見立て、銀貨一枚。直せないと申し上げる仕事にも、値がある。


 あの一行はまだ城の中にしかない。


「ポレット」


「はい」


「明日、会館へ伺います」


「え」


「組合長に、直に」

お読みいただきありがとうございます。

値表にない仕事は、試験にもありません。——入口が、閉じているのです。


次話——組合長ヴァレンタン。玄関の名簿の、いちばん古い頁を開きます。


続きが気になりましたら、ブックマーク・評価で応援いただけると励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。