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第36話 返礼の船

 夏が来て、お直しの部の帳面は、頁の繰りが早くなった。


 値表が城の中を回り始めたからだ。いくらか分かるようになると、人は頼みやすくなる。それまでは、いくら包めばいいのか分からないから、遠慮して黙っていた——そういう人が、思っていたよりずっと多かったのだと知った。


「先月ぶん、九十四件です」


 ポレットが帳面を読み上げる。読み上げるのに、もう指でたどらない。


「銀貨で、六十八枚と、銅貨が二十二枚。……あと、桃を二籠と、卵を十六」


「卵は帳面に載せないでください」


「載せました。いただいた物も、いただいた物です」


 コリンヌが吹き出し、アネットが盥の縁で肩を揺らした。


 その日の一件目は垂れ幕の点検だった。


    *


 大礼の間の垂れ幕は、私がこの部屋に来た冬に、傷んだ箇所を四十一か所直している。


 大礼の間というのは、儀式そのものを行う玉座の間とは別で、拝賀と宴の広間だ。天井が高く、垂れ幕が長い。長いぶん、自重で裾が傷む。


 脚立の上から裾を検めて私はほっとした。当てた布はどれも生きていて、新しい傷みは三か所しかない。


「あと十年は持ちます」


 脚立を押さえていたポレットが、下から見上げてきた。


「十年って、ずいぶん先ですね」


「布にとっては、明日みたいなものです」


    *


 局長が来たのはその日の午後だった。


 いつもより歩くのが速い。書き付けの束を、裁ち台の上に少し乱暴に置いた。角を揃えない日は、たいてい良くないことがある。


「東の国から返書が来た」


「まあ」


「王太后様の申し入れは通った。返礼の使節は、もともと同じ船で決まっていた話だ。そこへ一行、加わった」


 局長は書状の写しを開いた。異国ふうの丁寧な字が並んでいる。


 『直されぬまま眠る礼服を一領、携え申すべく候』


 私はその一行を二度読んだ。


「……来るのですね」


「来る。使節長はハディル侯という御方だ。随行に、宮廷の仕立師がひとり。ゼイナという名の女人だそうだ」


「仕立師の方が」


「東の国では、織と仕立てを分けないと聞く。……船で片道一月あまり。着くのは秋の初めだ」


 夏の盛りに、秋の話をした。三月先の一着のことを、私はもう考え始めていた。


 だから、局長が次の紙を出したとき、頭の切り替えが一拍遅れた。


「支度の割り振りだ」


    *


 一覧表だった。


 拝謁の設え。返礼の品。随行者の装束。宿所の設え。それぞれに、請ける工房の名が書き込んである。


 どれもあの十七軒のうちの名前だった。


 私は上から下まで二度見た。もう一度見た。


 お直しの部の名は、なかった。


「……ひとつも」


「ひとつもない。名簿にないからだ」


 局長の声は平らだった。平らにしているのだ、と分かった。


「宮内府は組合に一括で命じた。手が足りているうちは、分けて出す理由がない。……理屈としては、正しい」


「正しいのは、分かります」


 私はもう一度、表を見た。そして、下から三行目のところで指が止まった。


 『大礼の間 垂れ幕 新調 金貨三十枚』


 私はその一行をしばらく見ていた。


「局長」


「言うな。私も見た」


「今朝、検めてまいりました」


「知っている」


「新しい傷みは三か所です。当て布は生きています。あと十年は持ちます。……銀貨五枚あれば、直せます」


「知っている」


 局長は書き付けの束の角を、ようやく指一本で揃えた。揃えてから、低く言った。


「私が査定を戻す。三十枚は通さん。……だが、通さないだけだ」


「と、申しますと」


「直す仕事を、そなたに回せない。回すには、名簿に名が要る。私が式典局長の権で押し込めば、通達を破ることになる。通達を破った直しは、次の年に必ず消される」


 消される。


 私は、宮内府の帳に並んだ『衣装修繕費』の一行を思い出した。書かれたものを消すには理由が要る。理由を、こちらから差し出してはいけない。


「では、名簿に入るしかないのですね」


「そういうことになる」


    *


 その晩、私たちは規約をもう一度、最初から読んだ。


 第十七条は覚えるほど読んだ。針を業とする者は、組合の徒弟証を有すべし。読み書きを能くし、年季七年を勤めたる者に授く。


 登録の条にはこうあった。


 『工房として名簿に加わらんとする者は、徒弟証を有する者を、少なくとも一人置くべし』


「一人でいいのです」


 私は言った。


「一人、この部屋に、徒弟証を持つ者がいればいい」


「そなたは持っておらんのか」


「持っておりません。……年季が、足りません」


「五か月か」


「半年です」


「大差ない」


 局長はめずらしく、そこで少し笑った。笑ってから、規約の次の頁をめくって、指を止めた。


「第十八条」


「はい」


「『技倆抜群の者は、組合の試験をもって年季に代う』」


 私は身を乗り出した。


「試験があるのですね」


「ある。……年に二度。次は、来月だ」


 ポレットが糸巻きを取り落とした。落ちた糸巻きが、床を転がって、裁ち台の脚に当たって止まった。


「あたし、受けられますか」


 ポレットの声が、いつもより高かった。


「規約には、年齢のことは書いてありません」


「読み書き、要りますか」


「……要ります」


 ポレットは自分の手を見た。それから、帳面を見た。九十四件と書いた、まだ曲がっている字を。


「半月あります」


「ええ」


「毎日十針で、字が二つでした。……二十でも三十でも、覚えます」


 私は、はい、とだけ答えた。


 大丈夫です、とは言わなかった。言えることと、言えないことの見分けだけは、この五か月で少しうまくなった。


 燭台を二本立てて、その夜から、稽古が始まった。


 布を裁つ音の代わりに紙を裁つ音がした。まっすぐな、細い音だった。

お読みいただきありがとうございます。

名簿に一人。たった一人でいいのです。


次話——試験の日が来ます。半刻の砂が、思ったよりずっと速く落ちます。


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