第35話 値のない仕事に、値を付ける
値表と起案は、朝いちばんに宮内府へ渡った。渡したのは局長で私は部屋にいた。渡す場に立ち会いたい気持ちはあったが、その日の繕い物の棚には、まだ十一件が残っていた。
「行ってらっしゃいませ」
「行ってくる。……そなたは、いつもどおりにしていろ」
いつもどおり。それが、たぶん、いちばん強い。
*
昼前にメルヴィル伯爵夫人がいらした。付き添いの乳母が白い包みを抱えている。夫人は少しやつれて、そして前よりずっと、笑うのが早くなっていた。
「男の子でした」
「おめでとうございます」
「あなたの腰紐の見立てのおかげで、最後の月まで歩けましたのよ。……今日は、お願いに参りました」
包みが解かれた。出てきたのは産着だった。麻の素朴な一枚で、飾りは襟ぐりの細い縁かがりだけ、あとは何もない。よく洗われて、よく着られて、乳色に近い生成りになっている。
「わたくしが着たものです。母が着て、わたくしが着て。この子で三代目になります」
私はルーペを取った。脇の下に、ほつれが二か所。肩の合わせに紐が付いていた跡が四つ。そのうち二つは、紐そのものがなくなっている。生地は——
縁を指で押して私は少し驚いた。沈まない。返してくる。
「よく残っておりますね」
「三代目でも、大丈夫でしょうか」
「大丈夫です。麻は、絹より強うございます」
言いながら、私は二日前の白い絹の音を思い出していた。あの絹は押しただけで沈んだ。同じ年月でも、布によって、死に方が違う。
「傷んでいるのは、いちばん力のかかる場所だけです。脇と、紐の付け根と。……三代とも、同じところが傷んでいます」
「同じところ」
「はい。赤ん坊は、三代とも同じ動き方をしたのですね」
夫人は口を押さえて笑った。それから、少し目を潤ませた。
紐はこの産着から取ることにした。裾の縫い代を細く裁って、共布の紐を四本作る。よそから足すより、そのほうがなじむ。お代は銀貨一枚と申し上げたが、夫人は銀貨三枚を置いて残りを受け取らなかった。
「値表を作られたと伺いました」
「まだ、宮内府に出したところです」
「では、これは前払いです。三代目の次の代の、繕い代」
*
午後、局長が戻ってきた。書き付けの束の上に、新しい写しが一枚載っている。宮内府の帳の写しだった。
新調費。調度費。営繕費。そして——
『衣装修繕費』
「通ったのですか」
「通った。渋られはしたが、理屈で押した。営繕費に紛れていては、直しでいくら浮いたか誰も言えん、と」
「値表は」
「宮の内の値として受理された。城の中の仕事は、この表で払う」
私はその一枚をしばらく手に持っていた。新調費の隣。同じ紙の、同じ帳の、同じ並びに、直しの費目がある。
この五か月、私が針で作ってきたものは、ずっと物だった。直った衿。継いだ肩。起こした緞刺し。物は、いつか擦り切れる。紙は、擦り切れない。書き足されるか、消されるか、そのどちらかだ。
「……局長」
「言うな。分かっている」
「まだ何も申し上げておりません」
「顔に出ている。そなたは値表の話をすると、いつも同じ顔をする」
*
セラファンが来たのは、その日の夕方だった。相変わらず丁寧で、相変わらず含みがない。手には私の値表の写しがあった。宮内府から組合へ回ったのだ。
「拝見いたしました」
「いかがでしたでしょう」
「よく刻んでおられます。……正直に申し上げて、驚きました。値付けは、慣れぬ者には難しいものにございますが」
彼は写しの、最後の一行のところで指を止めた。
見立て、銀貨一枚。
「これがよろしゅうございますな。直らぬと申し上げる仕事に、値を付けておられる。……我々の値表には、ございません」
「では、加えていただけますか」
私は言った。言ってから、自分の声が思ったより硬いのに気づいた。
セラファンは写しを畳んだ。畳む手つきが丁寧で、そこにも悪意はなかった。
「持ち帰らせていただきます」
「持ち帰る、というのは」
「組合の値表を書き替えるということは、位を一つ増やすということにございます。位は、会館で決めます。……値のない仕事に値を付けるのは、我々の領分にございますので」
彼は腰から丁寧に折れた。
「お直しの部の値表は、城の中では立派に通用いたしましょう。城の中では」
戸口の音が遠ざかったあと、ポレットが小さな声で言った。
「……あの人、悪い人じゃないですよね」
「ええ」
「なのに、なんで、こんなに嫌な気持ちになるんでしょう」
私は答えを持っていなかった。
*
日が落ちてから、西離宮に召された。王太后様は東の国の書状を膝に置いておられ、私が書いた返事の案も、その隣にあった。
「行かない、と書いてありますね」
「はい」
「理由が、繕い物の棚が空かないから、と」
「……はい」
「よい理由です」
王太后様は、書状の緑の封蝋を指でなぞられた。
「ですが、断ってしまうのは惜しい。あちらには、直されぬまま眠っている礼服があるそうですから」
「はい。……それが、いちばん気になります」
「では、こういたしましょう」
王太后様は顔を上げられた。
「行くのではなく、来ていただきましょう」
私は意味を掴むのに一拍かかった。
「東の国の方に、こちらへ」
「大礼の返礼の使いを、そろそろお出しになるころです。そのついでに、直されぬ礼服を一つ、携えてくるようにお願いするのです。……こちらの針で、こちらの部屋で、お直しする」
「王太后様」
「あなたは城を出ずに済みます。棚も空かないままで結構。そして——」
白髪の貴婦人は、ほんの少しだけ、笑われた。
「城の外の方々に、あなたの手を見ていただけます」
*
部屋へ戻ると、局長がまだいた。裁ち台に、宮内府の帳の写しと、私の値表の写しが並べて置いてある。
「西離宮は」
「東の国の方が、こちらへいらっしゃることになりそうです」
「……なるほど。あの方は、譲るふりをして取る」
局長は写しの二枚を、少しだけ動かして、端を揃えた。二枚の紙が、ぴたりと重なった。
「値表と費目だ。片方だけでは効かん。値があっても払う欄がなければ払えんし、欄があっても値がなければ額が入らん」
「ええ」
「……二枚で一つだ」
言い方が、いつもの実務の口調だった。実務の口調のまま、局長は少し黙った。
私も黙っていた。燭台の芯が、小さく爆ぜた。
「三十一件」
局長が言った。
「はい」
「十日で三十一件だそうだな。ポレットが自慢していた。……次の十日は、もっと増える。増やせ」
「増やします」
私は帳面を開いて、明日の分の頁に日付を書いた。値のない仕事に、値を付けた。まだ城の中だけの値だ。それでも、書かれた。書かれたものは、消すのに理由が要る。
糸を通す音が、ひとつ。今日も、いい音がした。
お読みいただきありがとうございます。
書かれたものを消すには、理由が要ります。書かれていないものは、理由もなく消せるのです。
次話——東の国から、返書が届きます。使節が携えてくるのは、三十年ぶりに海を渡る一着です。
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