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第34話 あの男は、昔ここにおった

 値表を作る、と言われて、私はまず帳面を出した。この部屋に来た日からの控えだ。品と、傷みと、掛かった刻と、いただいたお代。三週間で十七件と申し上げたころの、ぎこちない字から始まっている。


「五か月ぶんです」


「充分だ」


 局長は帳面をめくりながら、ときどき指を止めた。


「繕い、銀貨一枚。繕い、銀貨一枚。……繕い、銅貨五枚。これは」


「近衛の方です。持ち合わせがそれだけでしたので」


「値を負けたのか」


「負けました」


「なぜ書いた。負けたと分かる書き方で」


「負けたことも、控えです」


 局長は少し黙って次の頁へ行った。


「よろしい。……では刻みを決める。値は、掛かった刻で決めるのではない」


「では、何で」


「新調との差だ」


 局長は請求書の束から一枚を抜いて裁ち台に置き、組合の値表の写しと並べた。


「向こうの値表には、新調の値がすべて載っている。礼装新調、金貨十二枚より。……そなたが直せば、その一着は新調せずに済む。王家が払わずに済んだ金が、そなたの仕事の値だ」


「それでは、値が高くなりすぎます」


「高くはならん。差の全部を取るとは言っていない。差があることを示すのだ。示さなければ、ただの慈善になる」


 私はしばらく考えて紙に線を引いた。


 繕い、銀貨一枚より。

 継ぎ・当て、銀貨二枚より。

 寸法直し、銀貨三枚より。

 仕立て直し、銀貨十枚より。

 織り継ぎ、古式の起こし、金貨一枚より。


 書き終えて最後にもう一行足した。


 見立て、銀貨一枚。


「これは」


「直せるか直せないかを申し上げる仕事です。直せないときにも、いただきます」


 局長はその一行をいちばん長く見ていた。


「……そなた、値付けが上手くなったな」


「局長にさんざん叱られましたので」


「叱ってはいない。安すぎると言っただけだ」


    *


 厄介だったのは、紙のほうではなく、帳のほうだった。


「費目がない」


 局長は請求書の束の角を指一本で揃えながら、そう言った。


「宮内府の帳には、新調費、調度費、営繕費——この三つしかない。いま、お直しの部の材料と俸給は、営繕費から出ている」


「営繕費」


「屋根の修理と、同じ欄だ」


 私は思わず帳面から顔を上げた。


「同じ欄に、絹糸が並んでいるのですか」


「並んでいる。釘、漆喰、瓦、蝶番、絹糸、絎け針。……見るたびに背中が痒くなる」


 局長は本気で不快そうだった。この人が予算の帳で不機嫌になるのは、金額のせいであることのほうが少ない。並びのせいであることのほうが多い。


「だから費目を作る。『衣装修繕費』。新調費の隣に置く」


「通りますか」


「通す。……理屈は簡単だ。営繕費に紛れていると、いくら直して、いくら浮いたのかが誰にも分からん。分からんものは、次の年に削られる」


 局長は新しい紙を引き寄せて、几帳面な字で書き出した。


「費目が立てば、額が残る。額が残れば、比べられる。比べられれば——」


「消せなくなります」


「そうだ」


 それは、針の話ではなかった。けれど、私の知っている仕事にとてもよく似ていた。


 縫い目は筆跡だ。帳の一行も、たぶん、筆跡なのだろう。


    *


 夕方、ゴットフリートが来た。庫番が自分の足でこの部屋に来ることは、めったにない。用があるときは、たいてい黙って物のほうを寄越す。


「これを」


 差し出されたのは前掛けだった。革と帆布で作った庫番の前掛けで、三十年使っているというのは見れば分かる。帆布が布というより板に近くなっていた。


「肩紐が」


 右の肩紐が、付け根で裂けかけていた。革が硬くなり、縫い穴のところから割れている。


「新しいのを、庫に十枚ばかり置いてありますでしょう」


「ある」


「では」


「これがいい」


 それだけだった。私は前掛けを膝に載せた。革は割れているが、帆布はまだ生きている。肩紐は、内側の当て革を新しくして、縫い穴を一つずらせば持つ。同じ穴には戻さない。同じ穴はもう力を持っていないからだ。


「三日いただきます。お代は銀貨二枚」


「高いな」


「継ぎと当てにございます」


「……ふん」


 ゴットフリートは鼻を鳴らして、それから裁ち台の上を見た。組合の規約と値表の写しが、まだ広げてある。老人の目が、表紙のところで止まった。組合の印の下に細く署名がある。書き慣れた、角の立った字だった。


 『組合長 ヴァレンタン』


 ゴットフリートは、しばらくその一行を見ていた。私が声をかけようとしたとき、老人は言った。


「……ヴァレンタン」


「ご存じですか」


「あの男は、昔ここにおった」


 部屋の音が、一つぶん静かになった気がした。ポレットが糸巻きを止めている。


「ここ、というのは」


「衣装室だ」


「いつごろの」


「三十年前だ」


 三十年前。その言葉が、この部屋でどれだけの重さを持つか、老人はよく知っているはずだった。


「では、火事の」


「その前からおった」


 ゴットフリートは前掛けの裾を一度撫でて、それきり口を閉じた。


「もう少し、伺えませんか」


「わしの口から言うことではない」


「では、どなたの口からなら」


 老人はほんの少しだけ目を上げた。


「あの男の口からだ。……それか、広間の筆頭殿の口からだ」


 マダム・ジョゼット。


 私は、規約の綴じ糸を無意識に指でなぞっていた。細く、几帳面な、いい縫い目。組合の綴じ糸はどれもそうだった。仕立て屋の寄り合いなのだから当たり前だ。当たり前のはずだった。


    *


 夜、局長が『衣装修繕費』の起案を書き終えて、私が値表を清書し終えたのは、燭台が二本とも短くなってからだった。


「明日、二つとも宮内府へ出す」


「はい」


「そなたの値表は、宮内府から組合へ回る。……向こうは必ず何か言ってくる」


「何と言ってくるでしょう」


「さあな。だが」


 局長は、書き上げた紙の角を、指一本で揃えた。


「そなたの仕事の名が、初めて紙に載る。それだけは、向こうにも消せん」


 私は清書した紙を灯りに透かした。繕い、銀貨一枚より。継ぎ・当て、銀貨二枚より。寸法直し——名前がある。値がある。


 紙を畳む音が、ひとつ。今夜は、いい音がした。

お読みいただきありがとうございます。

帳の一行も、たぶん、筆跡なのです。


次話——値表を出します。組合の答えは、「値を付けるのは、我々の領分にございます」。


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