第33話 継げない絹
断り状は三日で四通になった。
糸屋。裏絹の問屋。洗い張りの請け負い。糸の芯を撚る職人。どれも文面が違い、どれも丁寧で、どれも同じことを書いていた。
『組合規約により、部外へのお卸しは相成らず』
三十年前——祖母の頃の話ではない。ほんの数か月前、大礼服を直していたとき、私たちは同じ目に遭っている。あのときの断り状は、三通とも文面が同じだった。写しを回して書かせた証拠で、だから証拠になった。
今度は違う。文面がすべて違い、どれも規約の条番号がきちんと引いてある。
「正しいのです」
私は四通を裁ち台に並べて言った。
「今度は、正しい妨害です」
「その言い方は好かんな」
局長は一通を取り上げ、条番号のところを指で押さえた。
「正しいのは条文だ。妨害は妨害だ。……だが、崩す口実がない。前は帳面に嘘があった。今度は嘘がない」
*
嘘のない相手に、こちらも嘘のない手で当たるしかない。
私は城下へ下りた。ギヨムの妹の伝手を頼って、古着市の裏の通りを一日歩いた。
組合に入っているのは、看板を出して新しく仕立てる店だ。古着屋は入っていない。端切れ屋も入っていない。糸のはしたを量り売りする爺さんの店も、当然入っていない。
「組合ねえ。うちは仕立てねえもの」
糸のはしたの店の主人は、粉のような綿ぼこりの中で笑った。
「巻きの残り、切れっぱし、色の合わなかった染め損じ。そんなもんばっかりだよ。使えるかい」
「使えます」
私は棚の巻きを一つずつ手に取って、指の腹で撚りを検めた。強さの揃わない糸は直しには向かない。けれど五つに一つは生きている。生きているものだけを選り分けて、二刻かけて、籠一つぶん買った。
銀貨で二枚と少し。同じ量を糸屋から買えば、三倍はした。
「あんた、目利きだね」
「祖母がそうでした」
帰り道、私は納戸の鍵のことを考えていた。
*
納戸にはまだ返品の山が残っている。
建国祭のとき、寸法と格の合う七着を選び出し、そのうち三着を再生に回した。残りは二十着ほど。虫食い、裁ち込み、葡萄酒の染み——直して着るには向かない、と私が見立てた側だ。
ポレットとアネットと三人で、その山を運び出した。
「捨てるんですか」
ポレットが不安そうに言うので、私は首を振った。
「解きます」
着られない一着でも、生きている部分はある。裏地。見返し。芯地。裾の縫い代。ボタン。何より、縫い糸だ。
「表が駄目でも、内側は日に焼けていません。芯は生きています」
「じゃあ、この山、材料なんですか」
「元手です」
アネットが洗い張りの盥から顔を上げて、めずらしく口を開いた。
「……あの、それでしたら、わたし、洗い張りは自分でやります。請け負いに出さなくても、盥と張り板があれば」
「二十着ぶんですよ」
「はい。手が余っているよりは」
その日から、部屋の梁には毎日、洗った裏絹が下がるようになった。糸のはしたの籠が窓辺に増えた。狭い部屋が、もっと狭くなった。
繕い物の棚はそれでも空かなかった。
*
その一着が持ち込まれたのは、四日目の夕方だった。
洗い場の下働きの娘で十八だという。抱えていたのは、木綿の風呂敷にくるんだ包み。ほどくと、白い絹が出てきた。
「母の、婚礼の衣装です」
娘は早口だった。緊張しているのだ。
「秋に、わたしも祝言を挙げます。これを着たくて。……袖が、少しほつれているだけなんです」
私は燭台を引き寄せ、ルーペを取った。
袖のほつれは確かに小さかった。問題はそこではなかった。
絹は、白いというより、黄ばんだ乳色になっていた。私は指の腹を、身頃のいちばん傷みの少ないところに当てて、そっと押した。
押しただけで繊維が沈んだ。
もう一度、爪の先で軽く撫でる。糸が、粉のようになって、指についた。
「……お母さまは、この一着を、しまっておかれましたか」
「はい。箪笥の奥に、ずっと」
「湿りのある場所でしたか」
「……台所の上の部屋でした」
私は袖を裏返した。縫い代の内側だけが、まだ白い。表に出ていた部分は、日と、湿りと、年のぶんだけ、芯から痩せている。
絹は、痩せる。
布は、擦れて薄くなるだけではない。糸そのものが、内側から力を失っていく。そうなると、針が通らない。正確に言えば、通るけれど、通した先から裂ける。
継ぎたくても、継ぐ相手の糸が、もう縫い目を持てないのだ。
「お嬢さん」
私はできるだけ静かに言った。
「この一着は、直せません」
娘の顔から、色が引いた。
「……ほつれだけなんです。ここだけ」
「そこを縫えば、隣が裂けます。隣を縫えば、その隣が裂けます。半日で、袖がなくなります」
「でも、あの、お直し係さまなら」
「私にも、できません」
言い切らなければならなかった。含みを残せば、この子は待ってしまう。
娘は絹を引き寄せて抱えた。抱えた腕の中で絹がかすかな音を立てた。乾いた紙の音に似ていた。
私はその音を聞いていた。
*
「——ただ」
娘が戸口に着く前に私は言った。
「縫い代の内側と、見返しは、生きています」
「え」
「表に出ていなかった布です。手を触れられていないぶん、力が残っています。集めれば、一尺と少し」
私は裁ち台に手をついた。
「一着には戻りません。けれど、ヴェールになります」
娘が振り向いた。
「……ヴェール」
「お母さまの絹で作った、あなたのヴェールです。それを頭に載せて、祝言に出られます。……この一着を、着ることはできません。それは、はっきり申し上げます」
娘はしばらく黙っていた。それから、風呂敷を裁ち台の上に置いた。
「お願いします」
声が震えていた。震えたまま、置いていった。
お代は銀貨一枚と申し上げた。娘は銅貨を三枚しか持っていなかったので、それでいただいた。
*
夜、局長が来た。私は日中のことを話した。
話しながら、自分が「直せません」と言った瞬間の声を、何度も思い返していた。
「三十年前の礼服は、直りました。焼けていても、織り継げました。それなのに」
「焼けた織と、痩せた織は別物なのだろう」
「……別物です」
「ならば、そなたの手は落ちていない」
局長は籠の糸を一つ取り上げて、撚りを見た。見方が、少し様になってきている。
「値表の話をしよう」
「値表」
「向こうの値表には、直しの項目がない。ならば、こちらが作ればいい」
私は顔を上げた。
「作る、というのは」
「直し料の値表だ。繕いはいくら、継ぎはいくら、寸法直しはいくら。……そして、直せない物は、いくらか」
「直せない物に、値は付きません」
「付く。見立てにも手間がかかっている。今日そなたは、ルーペと燭台と半刻を使って、この絹は直らないと言い切った。あれは仕事だ」
局長は糸を籠に戻した。
「直せないと言える者にだけ、値を付ける資格がある。直せると言い続ける者の値には、意味がない」
私は、抱えられて出ていった絹の音を思い出した。
あれを「直せます」と言わなかったことが、たぶん、今日いちばんの仕事だった。
窓の外で洗い張りの絹が夜風に鳴った。ぱたり、と一つ。
お読みいただきありがとうございます。
直せない、と言えることも、腕のうちです。
次話——直しに、値を付けます。そして庫番が、ひとつだけ古い名前を口にします。
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