↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
33/51

第33話 継げない絹

 断り状は三日で四通になった。


 糸屋。裏絹の問屋。洗い張りの請け負い。糸の芯を撚る職人。どれも文面が違い、どれも丁寧で、どれも同じことを書いていた。


 『組合規約により、部外へのお卸しは相成らず』


 三十年前——祖母の頃の話ではない。ほんの数か月前、大礼服を直していたとき、私たちは同じ目に遭っている。あのときの断り状は、三通とも文面が同じだった。写しを回して書かせた証拠で、だから証拠になった。


 今度は違う。文面がすべて違い、どれも規約の条番号がきちんと引いてある。


「正しいのです」


 私は四通を裁ち台に並べて言った。


「今度は、正しい妨害です」


「その言い方は好かんな」


 局長は一通を取り上げ、条番号のところを指で押さえた。


「正しいのは条文だ。妨害は妨害だ。……だが、崩す口実がない。前は帳面に嘘があった。今度は嘘がない」


    *


 嘘のない相手に、こちらも嘘のない手で当たるしかない。


 私は城下へ下りた。ギヨムの妹の伝手を頼って、古着市の裏の通りを一日歩いた。


 組合に入っているのは、看板を出して新しく仕立てる店だ。古着屋は入っていない。端切れ屋も入っていない。糸のはしたを量り売りする爺さんの店も、当然入っていない。


「組合ねえ。うちは仕立てねえもの」


 糸のはしたの店の主人は、粉のような綿ぼこりの中で笑った。


「巻きの残り、切れっぱし、色の合わなかった染め損じ。そんなもんばっかりだよ。使えるかい」


「使えます」


 私は棚の巻きを一つずつ手に取って、指の腹で撚りを検めた。強さの揃わない糸は直しには向かない。けれど五つに一つは生きている。生きているものだけを選り分けて、二刻かけて、籠一つぶん買った。


 銀貨で二枚と少し。同じ量を糸屋から買えば、三倍はした。


「あんた、目利きだね」


「祖母がそうでした」


 帰り道、私は納戸の鍵のことを考えていた。


    *


 納戸にはまだ返品の山が残っている。


 建国祭のとき、寸法と格の合う七着を選び出し、そのうち三着を再生に回した。残りは二十着ほど。虫食い、裁ち込み、葡萄酒の染み——直して着るには向かない、と私が見立てた側だ。


 ポレットとアネットと三人で、その山を運び出した。


「捨てるんですか」


 ポレットが不安そうに言うので、私は首を振った。


「解きます」


 着られない一着でも、生きている部分はある。裏地。見返し。芯地。裾の縫い代。ボタン。何より、縫い糸だ。


「表が駄目でも、内側は日に焼けていません。芯は生きています」


「じゃあ、この山、材料なんですか」


「元手です」


 アネットが洗い張りの盥から顔を上げて、めずらしく口を開いた。


「……あの、それでしたら、わたし、洗い張りは自分でやります。請け負いに出さなくても、盥と張り板があれば」


「二十着ぶんですよ」


「はい。手が余っているよりは」


 その日から、部屋の梁には毎日、洗った裏絹が下がるようになった。糸のはしたの籠が窓辺に増えた。狭い部屋が、もっと狭くなった。


 繕い物の棚はそれでも空かなかった。


    *


 その一着が持ち込まれたのは、四日目の夕方だった。


 洗い場の下働きの娘で十八だという。抱えていたのは、木綿の風呂敷にくるんだ包み。ほどくと、白い絹が出てきた。


「母の、婚礼の衣装です」


 娘は早口だった。緊張しているのだ。


「秋に、わたしも祝言を挙げます。これを着たくて。……袖が、少しほつれているだけなんです」


 私は燭台を引き寄せ、ルーペを取った。


 袖のほつれは確かに小さかった。問題はそこではなかった。


 絹は、白いというより、黄ばんだ乳色になっていた。私は指の腹を、身頃のいちばん傷みの少ないところに当てて、そっと押した。


 押しただけで繊維が沈んだ。


 もう一度、爪の先で軽く撫でる。糸が、粉のようになって、指についた。


「……お母さまは、この一着を、しまっておかれましたか」


「はい。箪笥の奥に、ずっと」


「湿りのある場所でしたか」


「……台所の上の部屋でした」


 私は袖を裏返した。縫い代の内側だけが、まだ白い。表に出ていた部分は、日と、湿りと、年のぶんだけ、芯から痩せている。


 絹は、痩せる。


 布は、擦れて薄くなるだけではない。糸そのものが、内側から力を失っていく。そうなると、針が通らない。正確に言えば、通るけれど、通した先から裂ける。


 継ぎたくても、継ぐ相手の糸が、もう縫い目を持てないのだ。


「お嬢さん」


 私はできるだけ静かに言った。


「この一着は、直せません」


 娘の顔から、色が引いた。


「……ほつれだけなんです。ここだけ」


「そこを縫えば、隣が裂けます。隣を縫えば、その隣が裂けます。半日で、袖がなくなります」


「でも、あの、お直し係さまなら」


「私にも、できません」


 言い切らなければならなかった。含みを残せば、この子は待ってしまう。


 娘は絹を引き寄せて抱えた。抱えた腕の中で絹がかすかな音を立てた。乾いた紙の音に似ていた。


 私はその音を聞いていた。


    *


「——ただ」


 娘が戸口に着く前に私は言った。


「縫い代の内側と、見返しは、生きています」


「え」


「表に出ていなかった布です。手を触れられていないぶん、力が残っています。集めれば、一尺と少し」


 私は裁ち台に手をついた。


「一着には戻りません。けれど、ヴェールになります」


 娘が振り向いた。


「……ヴェール」


「お母さまの絹で作った、あなたのヴェールです。それを頭に載せて、祝言に出られます。……この一着を、着ることはできません。それは、はっきり申し上げます」


 娘はしばらく黙っていた。それから、風呂敷を裁ち台の上に置いた。


「お願いします」


 声が震えていた。震えたまま、置いていった。


 お代は銀貨一枚と申し上げた。娘は銅貨を三枚しか持っていなかったので、それでいただいた。


    *


 夜、局長が来た。私は日中のことを話した。


 話しながら、自分が「直せません」と言った瞬間の声を、何度も思い返していた。


「三十年前の礼服は、直りました。焼けていても、織り継げました。それなのに」


「焼けた織と、痩せた織は別物なのだろう」


「……別物です」


「ならば、そなたの手は落ちていない」


 局長は籠の糸を一つ取り上げて、撚りを見た。見方が、少し様になってきている。


「値表の話をしよう」


「値表」


「向こうの値表には、直しの項目がない。ならば、こちらが作ればいい」


 私は顔を上げた。


「作る、というのは」


「直し料の値表だ。繕いはいくら、継ぎはいくら、寸法直しはいくら。……そして、直せない物は、いくらか」


「直せない物に、値は付きません」


「付く。見立てにも手間がかかっている。今日そなたは、ルーペと燭台と半刻を使って、この絹は直らないと言い切った。あれは仕事だ」


 局長は糸を籠に戻した。


「直せないと言える者にだけ、値を付ける資格がある。直せると言い続ける者の値には、意味がない」


 私は、抱えられて出ていった絹の音を思い出した。


 あれを「直せます」と言わなかったことが、たぶん、今日いちばんの仕事だった。


 窓の外で洗い張りの絹が夜風に鳴った。ぱたり、と一つ。

お読みいただきありがとうございます。

直せない、と言えることも、腕のうちです。


次話——直しに、値を付けます。そして庫番が、ひとつだけ古い名前を口にします。


続きが気になりましたら、ブックマーク・評価で応援いただけると励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。