第32話 値表にない仕事
組合の写しは翌朝いちばんに届いた。
規約が一綴り、値表が一綴り。どちらも紙が良く、綴じ糸が丁寧で、表紙に組合の印が押してある。物としては、悪くない仕事だった。
「先に値表からだ」
局長は裁ち台の隅に請求書の束を寄せ、指一本で角を揃えてから、値表を開いた。
項目は上から順に細かく並んでいた。
礼装新調、一着につき金貨十二枚より。外套新調、金貨四枚より。婦人服新調、金貨三枚より。お仕着せ新調、一着銀貨十五枚。子ども服新調——
「……新調」
私は頁をめくった。次の頁も新調だった。生地の格ごとに、刺繍の目数ごとに、飾りの粒ごとに、細かく刻まれている。刻みは驚くほど親切で、誰が読んでも値が出るようにできていた。
三枚目まで来て私は指を止めた。
「局長」
「ああ」
「直しの項目が、ありません」
「ない」
局長は短く言って、値表を最初の頁に戻した。
「昨夜のうちに三度読んだ。ない」
繕いも、当ても、継ぎも、寸法直しも、洗い張りも——値表のどこにもなかった。あるのは新調と、新調に付いてくる物だけだった。
ポレットが背伸びして覗き込み、首をかしげた。
「あたしたちの仕事、書いてないんですか」
「書いていません」
「じゃあ、いくらでもいいってことですか」
「……逆です」
自分の声が思ったより静かなのに、少し驚いた。
「値がない、ということは、仕事ではない、ということです」
*
午前の一着は喪服だった。
持ってきたのはあの年配の女官だった。私がこの部屋に来て最初のひと月に、母上の形見の喪服を持ってこられた方だ。
「お暇をいただくことになりました」
「ご退官ですか」
「はい。三十八年、お勤めしました。……この喪服を、孫に譲ろうと思うのです」
喪服は、あのとき直した衿の当てがそのまま生きていた。ほかに擦れも裂けもなく、よく手入れがされている。
「お孫さんは、おいくつです」
「十九になります」
私は採寸の紐を出した。女官は少し恥ずかしそうに立った。
「わたくしの寸法も、要りますか」
「要ります。どこを詰めるかではなく、どこを残すかを決めますので」
肩と、袖丈と、身幅。中を検めると、三十八年ぶんの縫い代が、内側にきちんと畳んで残してあった。この喪服を最初に仕立てた針子は、いつか誰かが直すことを、はじめから見込んでいる。
「衿の当ては、そのままにいたします」
「まあ。……つぎはぎのままで、よろしいのですか」
「お孫さんが着るころには、これが、この一着の顔になります」
女官は衿に指を当てて、しばらく黙っていた。
「三十八年前に、この衿を当ててくださった方がいるのです」
「お母さまが」
「いいえ。母は針を持てませんでした。……宮の、お直しの方だと聞いております。名前は聞いておりません」
私は衿の当てをもう一度見た。この冬に私が当てたのはその上からだ。下の当ては、私よりずっと古い誰かの手だった。
運針は落ち着いていて、玉結びは布間に沈めてある。この部屋の作法だ。
「よい手です」
「そうですか」
「はい。名前は分かりませんが、手は残っています」
女官は、はい、とだけ言った。
お代は銀貨三枚と申し上げた。同じ格の喪服を新調すれば、金貨四枚は下らない。
値表には、この仕事の名前がない。
*
午後は規約を読んだ。
条文は五十を超えていた。仕入れ、卸し、看板、徒弟。読み進めるうちに、ポレットが糸を巻く手を止めているのに気づいた。
第十七条。
『針を業とする者は、組合の徒弟証を有すべし。徒弟証は、読み書きを能くし、年季七年を勤めたる者に授く』
「……読み書きを、能く」
ポレットが条文を指でたどった。たどりながら、途中で止まる。読める字と、まだ読めない字が、混ざっているのだ。
「あたし、まだ、能くじゃないです」
「ポレット」
「年季も、七年ないです。二年です」
ポレットは糸巻きを膝に戻して、ちいさく笑った。笑ったのが、いちばん応えた。
「あたし、みならいですから」
その言い方をこの子がするのを、私は初めて聞いた。
『みならい ポレット』と震える字で自分の札を書いたのは、十日前だ。あのときそれは、誇りの言葉だった。
「ポレット。年季というのは、いつからを数えるものだと思いますか」
「……お針を持たせてもらった日からです」
「ではあなたは二年ではありません。この冬からです」
ポレットは指を折って数えて、それから、もっと小さくなった。
「半年です」
「半年です。それでも、七年のうちの半年です」
私は羽目板の壁のほうを見た。歴代のお直し係の刺繍印が並ぶ列だ。糸車、鋏、花。いちばん古い端に褪せた銀糸の指貫があり、いちばん新しい端に私の印がある。
この列に印を残した人たちのうち、組合の徒弟証を持っていた者が何人いるのだろう。
たぶん、ひとりもいない。
*
夕方、局長が来て、規約の第十七条のところで指を止めた。
「宮の内の者に、組合の徒弟証は要らん。城の仕事に組合法は及ばん」
「はい」
「だが、この子がいつか城の外へ出るときには、要る」
それは、私が言葉にしないでおいたことだった。
「……局長」
「言っておくが、私は制度を憎んでいるわけではない。制度は要る。要るからこそ、抜けているものが目につく」
局長は値表を裁ち台に伏せて、その上に規約を重ねた。二綴りが、思ったより高く積まれた。
「ここには、直しがない。この中に、そなたの仕事は一行もない」
その夜、城下の糸屋から書状が来た。
『組合規約により、部外へのお卸しは相成らず。永年のご贔屓、まことに恐れ入り候』
文は丁寧だった。三十年前に祖母が受け取ったであろうどんな断り状よりも、たぶん、ずっと丁寧だった。
私は書状を灯りに近づけて綴じ目を見た。細く、几帳面な、いい縫い目だった。
布を畳む音が、ひとつ。畳んでも、棚は空かない。
お読みいただきありがとうございます。
値がない、ということは、仕事ではない、ということです。
次話——糸が入りません。今度の妨害は、規約どおりの、正しい妨害です。
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