第30話 糸の通った針
大礼の翌朝、お直し部屋には、いつもの繕い物と、いつもでないものが二つ届いた。
一つは、宮内府の沙汰書。
『王宮衣装室に、お直しの部を置く。頭、お直し係筆頭リディア・アシュフォード。見習い針子一名、針子二名を付す』
ポレットは沙汰書に顔を近づけて、一字ずつ、指でたどって読んだ。読み終えるのに、ずいぶんかかった。読めたのが分かったのは、洟をすすったからだ。
「『見習い針子』って、書いてあります。雑用係じゃなくて」
「ええ。あなたのことです」
「あたし、正式なんですか。お針の見習いで、正式」
「正式です。今日から仕立て札に、名前を書く側です」
ポレットはしばらく黙って、それから針箱から新しい札を出して、震える字で書いた。ひと文字ずつ、針を運ぶように。
『みならい ポレット』
書き終えてポレットは札を灯りに掲げた。
「字、曲がってますね」
「初めての札は、曲がるものです。私のも曲がりました」
「……嘘だ。リディアさまの字が曲がるわけ、ありません」
「本当です。今度、祖母のノートの端を見せてあげます。祖母に直された私の稽古の字が、恥ずかしいまま残っていますから」
針子二名は、コリンヌと、洗い張りの筋のよかったあの若い子が来ることになった。窓際三番の台が空くのは惜しくないのか、と訊いたら、コリンヌは笑った。
「窓際より、燭台の下のほうが、性に合ってました」
昼過ぎに、マダムが検分の顔で戸口に立った。部屋を見回して鼻を鳴らす。
「部、ですって。部屋がひとつのくせに」
「はい。部屋がひとつの、部です」
「……夜の緞刺しの貸しは、大礼で返してもらいました。これからは貸し借りなし」
マダムは踵を返しかけて、思い直したように付け足した。
「——と言いたいところですけど、また貸しに来ます。うちの若いのに、直しの目を仕込んでおきたいので。広間と、お直しの部と、行き来のある衣装室にします。それが筆頭の仕事でしょう」
*
いつもでないものの、二つ目。
見慣れぬ封蝋の書状だった。深い緑の蝋に、見たことのない国璽。東の国の、宮廷の印だという。
局長の立ち会いで開いた。異国ふうの丁寧な文字でこうあった。
『貴国大礼の御衣装修復の誉れ、我が宮廷にも聞こえ申し候。我が国にも、直されぬまま眠る礼服あまた有り。願わくは、貴宮のお直しの部の御指南を賜りたく——』
「……招きの状だ。それも、国璽入りの」
局長は文面を二度読んで眉間を揉んだ。
「昨日の今日で、もう聞こえている。耳の早いことだ。返事は急がん。国と国の話になる。宮内府で預かる」
「はい。……ただ」
「ただ?」
「直されないまま眠っている礼服がある、という一行だけ、預かれません。気になって、今夜の針が乱れます」
「乱れるのか、そなたの針が」
「乱れませんが、気になります」
局長は一呼吸遅れて笑った。
*
夕刻、局長は一度局へ戻り、夜にまた来た。今度は書き付けの束ではなく、布包みを抱えていた。
解くと、外套だった。局長がいつも着ている、あの古い外套。袖口が擦り切れて芯が覗きかけている。
「直してほしい。……四年、着た。あと十年は着る」
「珍しいですね。ご自分の物を、お出しになるのは」
「人には、それは、まだ使える、と言っておいてな。自分の袖口は見て見ぬふりをしていた。示しがつかん」
私は袖口を検めた。擦り切れは深いが、芯は生きている。折り返しに共布もある。見えない所から、見える所へ。いつもの、嘘のない手品で足りる。
「三日で直ります。お代は銀貨一枚」
「安すぎる。……と言いたいが、そなたの値付けだ。信用しよう」
ポレットが帰り、燭台がふたつになって、茶を淹れた。局長は懐から時計を出して、裁ち台の上に置いた。
蓋が開いていた。針が、動いていた。
「動いたのですね」
「動いた。油を差して、部品を二つ替えただけだそうだ。……三十年も百年も直すそなたの隣で、十年の時計を止めておくのは、間が抜けているだろう」
提げ紐は私が組んだあの組紐だった。布に戻れなかった古い絹糸が、時計と人をつないでいる。時計の音が、かち、かち、と小さく部屋に鳴った。針の音と、よく似ていた。
「リディア・アシュフォード」
局長が、名を呼んだ。建国祭の夜明け以来、二度目だった。
「そなたの針は、王宮の備品ではない。王命でも、沙汰でも、部の頭という肩書きでもなく——そなたの物だ。それを、忘れるな」
「はい」
「そのうえで、だ」
局長は、時計の蓋を、指先でそっと閉じた。
「その針が、これから何を直していくのか。……隣で、見ていたい。構わんか」
実務の申し送りのような言い方だった。けれど私は、針を持つ人の手元を見る癖が抜けない。書類の角を揃えるあの指が、時計の上で、ほんの少しだけ、緊張していた。
「……はい」
私は湯気の向こうで答えた。
「局長の隣は、灯りの届きがいいので。針仕事に、向いています」
「そうか」
「はい。それに——」
私は針箱を開けて、預かったばかりの外套を膝に広げた。
「局長の物は、放っておくと擦り切れるまで我慢なさるので。隣で見ている者が、要ります」
局長は何か言いかけて、やめて、茶を飲んだ。耳が、少し赤かった。
*
帰り際、局長は壁の羽目板の前で足を止めた。歴代のお直し係の、小さな刺繍印の列。いちばん古い『銀の指貫』と、いちばん新しい、私の『糸の通った針』。
「次の印は、いつ増える」
「さあ。……でも、いつかきっと」
昼間、ポレットが言ったのだ。仕立て札に自分の名を書いたあと、壁を見上げて、ちいさな声で。いつか、あたしの印も、あの壁に。
戸口の音が遠ざかって、私はひとり、外套の袖口に当て布を留めた。
東の国では、直されないままの礼服が眠っているという。この国の納戸にも、まだ返品の山が残っている。繕い物の棚は明日も空にならない。
結構なことだ。針子の仕事は、糸が続くかぎり終わらない。
燭台の灯りの下で、糸を通す音が、ひとつ。
今夜も、いい音がした。
お読みいただきありがとうございます。
糸の通った針は、止まりません。
東の国への返事は、まだ書かれていません——次話より、第二部「お直し部門編」。その封を、開けます。
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