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第29話 三十年目の大礼

 大礼の朝は鐘の音で明けた。


 最後の検分は夜明け前に終わっていた。裾の御旗の花、十二輪。焦げに呑まれた四輪は、写しから起こした針目で咲き直り、七宝の釦は法務方から戻された一粒を含めて、あるべき場所に十二粒。深い紫紺は、洗いと張りを経て、百年の艶を取り戻していた。


 燭台三つの下で、マダムは長いこと布を検めて、それから一言だけ言った。


「……お納めしましょう」


 着装の間には私とマダムが上がった。王太后様は鏡の前に立たれ、私たちは三十年ぶりに、大礼服に袖を通していただいた。


 肩に布が乗る。布が、人の形に目を覚ます。


 マダムが裾を回り、私は襟を整えた。裏襟の指貫の刺繍——祖母の署名の上を、指先がかすめる。三十年前、この襟を最後に整えたのも、同じ形の手だったはずだ。


「重さが、変わっていません」


 王太后様が、鏡の中で仰った。


「三十年前と、同じ重さです。……覚えているものですね、肩というのは」


 裾を整えながら、私は針目を目でたどった。祖母の糸、歴代の針子の糸、マダムの金糸、ポレットの下打ちの上の花、コリンヌの始末、そして私の継ぎ。ひと目ずつは小さくて、誰の目にも留まらない。留まらなくていい。布が立てば、それでいい。


    *


 玉座の間は人で埋まっていた。


 私は衣装室の列の端にいた。召し物は、若草色のドレス。お仕着せで列に立つつもりでいた私に、王太后様の使いが文を届けてきたのは、昨夜のことだ。


 『あなたは、あの若草色でいらっしゃい。あれがあなたの礼装です』


 袖口の、細かい直しの痕。半年前、この広間で嘲笑された縫い目。私はそれを着てまっすぐに立っていた。


 式部の声が、開式を告げる。


 王太后様が、入場された。


 紫紺が、玉座の間の光をゆっくりと渡っていく。ざわめきは起きなかった。逆だった。広間が、静かになっていった。年配の列席者から順に、息を呑む気配が波のように伝わっていく。あの礼服を、三十年前に見たことのある人たちだ。


 あれは、まさか、という囁きがさざ波のように走って、消えた。どこかですすり泣く気配がした。三十年前の大礼を知る老臣が、いちばん深く頭を垂れていた。


 その斜め後ろを、オーレリア王女殿下が歩かれた。銀鼠の一着。本歌と写しが、三十年ぶりに、同じ広間に並んだ。


「伝来の御衣装につき、来歴を奏上いたします」


 式部が、巻き物を開いた。先々代の妃の輿入れに始まる、百年の来歴が読み上げられていく。仕立てた針子の名。直し継いだ針子の名。その中に、筆頭針子エディスの名が、三十年ぶりに、あるべき場所で読まれた。


 そして、最後の一行。


「三十年前の災より、このたび修復。——王宮衣装室お直し係、リディア・アシュフォードの手による」


 自分の名が、玉座の間に響くのを、私は不思議な気持ちで聞いた。


 あの夜、この広間で、私は名前を失くした。婚約者の名も、令嬢の格も、居場所も。針箱ひとつで出て行った先で、指名のない指名を受けて、名前の出ない功を積んで——今、いちばん高い天井の下で、名前が、仕事と一緒に呼ばれている。


 誇らしさより先に来たのは、奇妙な静けさだった。名前は、呼ばれるために磨くものではない。針目と同じだ。正しく運べば、いつか誰かが見つけてくれる。祖母はそれを知っていて、三十年、市井で針を運び続けたのだと思う。


 列の中でポレットが洟をすする音がした。ゴットフリートは背筋を伸ばして、目だけ赤くして、口の中で何か言った。長うございました、と言ったのだと思う。


 近衛の列では、ギヨムが式典外套の肩をことさらに張っていた。あの肩の継ぎは私の針だ。列席の中程には、メルヴィル伯爵夫妻。夫人は目が合うと、袖口を小さく持ち上げてみせた。青い礼装だった。


 直した一着は、覚えている。着る人の側も、覚えていてくれる。


    *


 式のあと、控えの間に呼ばれた。


 王太后様は、大礼服のまま、私の前に立たれた。


「よく、直してくれました」


「衣装室の、皆の針です」


「ええ。存じています。……それでも、始めた針はひとつです」


 王太后様の目が、私のドレスの袖口に落ちた。細かい、直しの痕。祖母が母のために直し、私が受け継いだ、形見の縫い目。


「その縫い目も、私は知っています」


 王太后様は静かに仰った。


「輿入れの日から、ずっと。……あの子の針は、いつも、こうでした。誰にも気づかれないことを、誇りにしているような針目。あなたは今日、それを玉座の間まで着てきてくれた」


 返す言葉が、見つからなかった。半年前、みすぼらしいと笑われた縫い目が、この国でいちばん高い場所で、いちばん深く覚えられていた。


「エディスに、見せたかった」


「……見ていたと、思います」


 私はようやくそれだけ言った。


「祖母は、支度のいい人でしたから。きっと三十年ぶんの特等席を、取ってあったはずです」


 王太后様は少しだけ笑われた。それから、窓越しの初夏の光の中で、裾の十二輪を見下ろされた。


「花が、揃いましたね」


「はい。——全部、咲いています」


    *


 その夜、私はお直し部屋にいた。


 祭りの日でも、繕い物の棚は空にならない。列のできたあの朝から、預かり物はむしろ増えている。女官の肩掛けを一枚、燭台の下に広げる。


 大礼の日の夜に肩掛けの繕い。我ながらおかしくて少し笑った。けれど、これが私の礼服の畳み方なのだ。晴れの日を、普段の針で締める。


 糸を通す音が、静かな部屋に鳴った。

お読みいただきありがとうございます。

嘲笑われた縫い目は、玉座の間でいちばん深く覚えられていました。


次話、第一部の結びです——翌朝、お直し部屋に新しい沙汰と、見慣れぬ封蝋の書状が届きます。


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