第26話 織は、お前より年上だ
西離宮の朝は、針の音で始まるようになった。
昼の手が、ふたり増えた。広間からコリンヌと、もうひとり若い針子。あの朝の列の縁で、マダムに願い出てくれたのだという。
「窓際三番の台は、しばらく空けてきました。……あたしにも、返したい借りがあるんです」
コリンヌは解き上がりの布の始末が丁寧で、若い子は洗い張りの筋がよかった。人の手が増えるというのは、工程の帳面の上では日数の話だが、部屋の中では、音の話だ。針の音が増えると、部屋があたたかくなる。
王太后様は、日に一度は戸口の椅子にお座りになる。針子の手元をただ黙って見ておられる。初めのうち固くなっていたコリンヌたちも、三日で慣れた。手が慣れるより、部屋が慣れるほうが早かった。
織り継ぎは、一日に三十本を超えるようになっていた。
*
梅雨めいた長雨が、五日続いた。
湿気は古い布の敵だ。洗い張りが乾かない。乾かないまま張れば、布が縮んで嘘をつく。そして——継いだばかりの経が、朝までに三本、切れていた。
「昨日までは、保っていたのに」
「湿気で糸が太って、張りが変わったのです。……焦らない。切れたところから、継ぎ直します」
祖母のノートの、あの頁を開く。『経を一本継ぐのに、上手で四半刻。焦るな。織はお前より年上だ』
百年の織を、たかだか十九年の私が急かしてはいけないのだ。そうは言っても、指先は正直に強張った。工程に遊びは一日もないのだ。二日の遅れは、二晩の夜なべという意味だった。
マダムが黙って燭台をひとつ増やし、ポレットが黙って糸を倍巻いた。誰も大丈夫ですかとは訊かなかった。訊かないでいてくれることが、いちばんの加勢だった。
帳面の上では、二日の遅れ。夜なべをふたつ足して、雨の上がった朝に取り戻した。
織り継ぎの最後の一本が終わったのは、大礼を二十日後に控えた午後だった。千二百と余りの経が、すべて布に戻った。焼け焦げの色はまだ残る。それでも、指で張りを確かめると、布は布の音で応えた。
「……生き返りましたね」
マダムが、検分の長い沈黙のあとで言った。この人の検分は燭台三つぶん厳しい。その目が、緩んでいた。
*
残る山は緞刺しの起こしだった。
裾の御旗の花、十二輪のうち四輪が、焦げに呑まれている。金糸の芯は残っているが、花の形——針目の順も、糸の寝かせ方も、焼けた表面からは読み取れない。下絵は残っていない。
「本歌がだめなら、写しがあります」
救いは思いがけない所から来た。王女殿下が、銀鼠の一着を貸してくださったのだ。使いの文には品のいい字でこうあった。
『写しがお役に立つなら、本望です。祭のときのお礼が、まだでしたから』
銀鼠の裾には同じ御旗の花が咲いている。三十年前、祖母が本歌から写した花だ。
「ポレット。あなたの目と手を、貸してください」
ポレットは銀鼠の花を、燭台の下で、長いこと見ていた。指先は布に触れるか触れないか。目で読んで手で覚える。この子の手は一度見た縫い目を忘れない。
「……覚えました。最初の一針は花芯の左、糸は右回りに寝かせて、七針目で返してます」
ポレットが薄絹に下打ちの針目を写し、マダムがそれを本歌の上で起こしていく。写しから、本歌を復元する。三十年前とあべこべの仕事だった。
「エディス様の孫弟子ってことになるんですかね、あたし」
「孫弟子の、一番弟子です」
「なんですかそれ」
笑いながら、ポレットの針は止まらなかった。
*
その夜、祖母のノートをめくっていて、私はようやく気がついた。
織り継ぎの頁に貼られた稽古布。深い紫紺の絹。——大礼服と、同じ色。同じ織。
偶然ではなかった。ノートの後ろの頁ほど、稽古布の継ぎ目は細かく、確かになっていく。祖母は市井で三十年、この色の絹で、織り継ぎの稽古を続けていたのだ。
いつか沙汰が改まって、宮に呼び戻される日が来たら。あの礼服を直せと言われる日が来たら。そのために、三十年。
沙汰は来なかった。祖母は市井で針を握ったまま亡くなって、稽古布だけが残った。
翌朝、私はノートを王太后様にお見せした。王太后様は稽古布に指先で触れて、長いこと、何も仰らなかった。
「……戻る気で、いたのですね。あの子は」
「はい。三十年、支度をしておりました」
「なら、この直しは、あの子の仕事の続きです。あなたはいま、祖母と二人で縫っている」
*
仕事の切れ目に局長が来た。珍しく、実務の書き付けを持っていなかった。代わりに懐から時計を出した。
「城下の時計師に、出すことにした。半月で動くそうだ」
「……よろしいのですか」
「終わらないと知ったからな。父に訊きそびれた問いは、時計が動いても消えん。なら、止めておく理由もない」
私は預かっていた物を渡した。組紐だ。大礼服の解きで、どうしてもたどれず、切るしかなかった古い絹糸——あの小箱に、何に使うとも決めずに取っておいた糸を、提げ紐に組んだ。使い道のほうから、訪ねてきたのだ。
「布に戻れない糸も、紐には、なれます」
局長は組紐を灯りにかざして、それから、例の一呼吸遅れの笑い方をした。
「……そなたは本当に、何も捨てんのだな」
「性分です。局長と同じで」
局長は時計に組紐を付け、外套の内へ納めた。それから、戸口で振り返った。
「明日、商会の蔵を検める。大礼の御用を任せる店だ。帳が正しいか、確かめる責が式典局にはある。——正しくなかった場合の支度も、しておけ」
夜の西離宮に、起こしの金糸が、燭台の灯りを静かに撥ねていた。
針の音は朝まで絶えなかった。
お読みいただきありがとうございます。
写しが本歌を助けました。三十年前の針が、三十年後の針を助けています。
次話——商会の蔵から、あるはずのない帳面が出てきます。
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