第25話 その釦は、焼けていない
期限の朝はよく晴れていた。
約束どおり、ドルバンは書記を連れて現れた。その後ろに、商会の番頭と、空の荷車がひとつ。荷車が答えだった。検分とは名ばかりで、御衣装を載せて帰るつもりで来ている。
私は針箱の上に手を置いて戸口に立った。マダムが隣に並んだ。
そこへ、渡り廊下の向こうから、足音がひとつ。
年配の侍女だった。西離宮の、王太后様付きの。侍女は列の真ん中まで進み出て、封書を開き、静かによく通る声で読み上げた。
「王太后マルグリット様の御言葉です。——『先王妃大礼服修復の場を、本日より西離宮に移します。差配は変わらず宮内府式典局長。お直し部屋の者たちは、私の客人とします』」
ドルバンの顔から、丁寧さが剥がれた。侍女は続けた。
「『なお、火の危うさを申すのであれば、順がありましょう。三十年前、東翼の錠が検められなかった宮内府の落ち度から、詮議し直すのがよろしい。……検分の折には、私も立ち会います』」
錠、という一語で、番頭の首が動いた。ほんのわずか、荷車のほうへ。
ドルバンは書き付けを開かないまま、頭を下げた。
「……建白は、取り下げまする」
荷車は空のまま帰っていった。
*
移設はその日のうちに済んだ。
大礼服を運ぶ道中は、衣装室の全員が廊下に出て見送った。白布ごと乗せた運び台を、ゴットフリートが先導し、私とマダムが両脇に付く。渡り廊下の途中、中庭の花の上を、白い布がゆっくり渡っていった。三十年、封印棚の闇にいた礼服の、初めての外歩きだった。
西離宮の一室——輿入れ道具の間、と侍女は呼んだ。南向きの広い部屋で、朝から午後まで光が入る。裁ち台を据え、大礼服を白布ごと運び入れると、部屋は静かな工房になった。
「四十年前、私の道具がこの部屋に並んでいました」
王太后様は、戸口からそれを眺めて、仰った。
「あの子が、毎朝ここで針を研いでいました。……部屋にも、憶えというものがあるでしょう。ここで直しなさい」
お直し部屋そのものは残った。繕い物の帳面と、壁の印と、ポレットの稽古の机はあちらのまま。昼はお直し部屋、夜と大仕事は西離宮。それが新しい段取りになった。
*
いいことは、続くときは続く。
午後に荷が届いた。王都の問屋の印ではない。南部の、聞き覚えのある伯爵領の焼き印だった。中身は先染めの平絹が二反と、上等の裏絹。添えられた文の筆跡に見覚えがあった。
『三月のちの約束、果たしに参ります。腰紐の加減、あなたの見立てで。お代は、また銀貨三枚でお願いできますこと。——それから、実家の織元に申しつけました。南の絹は、王都の商会を通りません』
メルヴィル伯爵夫人。あの青いドレスの。
「糸は、川上で栓をされたはずでした」
私は文を読み返して、思わず笑ってしまった。川はひとつではないのだ。直した一着は、どこかで人につながって、糸になって帰ってくる。
起こしの金糸は王太后様の私庫から出た。輿入れの装束に付いてきたまま、四十年使われなかった古式の撚り金糸。「嫁入り道具が、やっと役に立ちます」と仰った。
足りない物が、なくなった。
*
夕刻、形ばかりの検分が行われた。営繕の書記が衣装室を回り、帳面に丸を付けていく。納戸の返品の山も、目録と突き合わせて検められた。
その立ち会いでポレットが手を止めた。
「リディアさま。この釦、留めが変です」
山の中の一着だった。数年前の「新作」とされた、商会工房製の夜会服。その前立てに七宝の釦が並んでいた。藍と若草の七宝。裏を返すと、宮の御用金工の刻印。
「留めの糸の掛け方が、他の釦と違います。あたし、こういうの、手が覚えてて……うちの衣装室の古い留め方じゃなくて、後から、別の手で付け直してます」
数えた。十一粒。そして前立ての一番下に、釦のない糸跡が、ひとつ。
釦を一粒、留めから外して裏を検める。御用金工の刻印。七宝の藍はいまの職人の藍より深い。古い仕事だ。それも、とびきり上等の。数年前の夜会服に付くはずのない格の釦が、十一粒、行儀よく並んでいた。
七宝の釦、十二粒。
焼失品目録の写しに、ただ一件だけ残っていた細目。先王妃様の、第二礼服。
私はその足で式典局へ走った。
*
「七宝は、焼けば色が死ぬ。この色は、火を知らん色だ」
局長は釦を燭台の下で検めて、長いこと黙った。
「三十年前、『焼けた』はずの礼服の釦が、焼けていない。数年前の『新作』に、後付けの留めで、十一粒。……一粒は、どこかで落としたか、売ったか」
「焼く前に、抜いていたのですね」
「そうだ。灰の中から釦だけ拾える火事はない。——奴らは、燃やす前に、金目の物を抜いた。抜いた品を、忘れた頃に『新作』へ使い回した。目録の正本を消したのは、突き合わせをさせないためだ」
事故ではなく、放火。放火の前に、窃盗。
三十年前の火の底が、ようやく見えた。祖母は、盗みの燃え殻を抱えて火の中から出てきて、火付けの咎を着せられて、宮を去ったのだ。
「立証には、まだ足りん。釦は物言わぬ帳面だが、これ一冊では、向こうの弁明を崩せん。……だが、口実にはなる」
局長は釦の付いた夜会服を布に包み、封をした。
「商会の蔵と帳簿を、検める口実にはな。——大礼の御用を任せる店の帳が正しいかどうか、式典局には確かめる責がある」
*
その夜から、西離宮の針仕事が始まった。
南向きの部屋に燭台を並べる。マダムが緞刺しの下拵えを広げ、ポレットが継ぎ糸を揃え、私は焼けた経の、続きの一本に針を入れた。
王太后様が、戸口の椅子で、いつまでもそれを見ておられた。
経糸、一本。また一本。四十年前と同じ部屋に、針の音が戻っていた。
お読みいただきありがとうございます。
焼けたはずの釦は、焼けていませんでした。
次話——ここから六十日、直す話です。衣装室の総力戦が始まります。
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