第24話 その部屋は、危のうございます
織り継ぎは七日目に入っていた。
焼け切れた経糸——布の縦を走る糸を、共裂から抜いた糸で、一本ずつ継いでいく。見取り図で数え上げた継ぐべき経は、千二百と余り。祖母のノートには『経を一本継ぐのに、上手で四半刻』とある。私の手はようやく四半刻に近づいてきた。夜はマダムの緞刺しが進む。二人がかりで一日に二十本と少し。
「帳面のとおりです。遅れも、進みもなく」
朝の報せに局長は「よし」とだけ返した。この人の「よし」は、金貨より重い。
その日の昼過ぎに客が来た。
宮内府の官服。恰幅のいい、五十がらみの男。後ろに書記をふたり連れて、戸口から部屋の中を、値踏みするように見回した。
「営繕方頭の、ドルバンと申します」
丁寧な声だった。丁寧なまま、男は書き付けを読み上げた。
「営繕方より建白。王宮衣装室お直し部屋の儀。一つ、当該室は手狭にして燭台の数、火気の扱い、規程に照らし危うきこと。一つ、三十年前の東翼の例もあり、伝来の御衣装を夜業の灯りの下に置くは如何なものかということ。一つ——」
男はそこで初めて私を見た。
「作業に当たる者の出自に、畏れながら、疑義があること」
ポレットが息を吸う音がした。私は針を置いてただ聞いていた。
「よって勧告。御衣装の修復は、設備の整った然るべき工房——差し当たり、御用のバルトルド商会の工房へ移すのが穏当。当該室は三日のうちに検分を受け入れ、御衣装を明け渡されたし。……以上にございます」
「お断りします」
声は私より先に出た。マダムだった。いつの間に来ていたのか、戸口に立って、腕を組んでいた。
「王宮衣装室筆頭、ジョゼットです。御衣装は衣装室への王命でお預かりしている物。営繕方の建白ひとつで工房を移す道理がありません。筆頭として、この移送に同意しません」
「筆頭殿。これは道理ではなく、規程の話でしてな」
「規程ですって。この部屋の燭台の数がご心配なら、縫製の広間は今夜から真っ暗にしていただかないと」
「あたしも、言っていいですか」
ポレットだった。膝の上で拳を握って立ち上がっていた。
「王命の書状に、『お直し部屋に』って書いてありました。あたし、字を習ってて、あの一行はぜんぶ読めます。宮内府の偉い人の字より、王様の字のほうが、偉いんじゃないんですか」
ドルバンの眉が、初めて動いた。けれど男は言い返さず、書き付けを畳んだ。役人の畳み方だった。言質も、感情も、何ひとつ残さない。
「三日ののち、検分に参ります。……その部屋は、危のうございます。皆さまの御為に申し上げておりますのでな」
*
夕刻、局長が来た。書き付けの写しを一読して、しばらく黙った。
「建白の筋は営繕方。だが判を押させたのは宮内府の詮議筋だ。『王家の恥』という言葉に弱い年寄りが、上にふたりいる。……ドルバンの妻の里は、商会の分家だ」
「止められますか」
「詮議は引き延ばす。差配は私だ、正面からは潰させん。だが——」
局長は初めて聞く固さで言った。
「三日は、私の権でも止まらん。検分そのものは規程の内だ。拒めば、向こうに口実をやる」
針も、帳面も、権のひと押しには勝てない夜が来る。分かってはいたことだった。糸を止められたときから、次は場所だと、あの男は言っていたようなものだ。
「明け渡すのは、部屋です」
私は自分に言い聞かせるように言った。
「針は、明け渡しません」
*
ところが、翌朝。
お直し部屋の廊下に列ができていた。
繕い物を抱えた人の列だった。母の形見の喪服を直した、あの年配の女官。式典外套のギヨムと、近衛の同輩がふたり。広間からはコリンヌが、仲間の針子を連れて。洗濯場の女たち、厨の下働き、顔も知らない官吏まで——朝のうちに数えて、十七人。
「検分とやらが来るんでしょう。だったらその前に、頼んでおこうと思って」
女官は、繕い物を裁ち台に置いて、はっきりと言った。
「誰も来ない部屋が聞いて呆れる。こんなに客の来る部屋を、危ないから閉めるだなんて、宮内府は目が悪いのね」
ギヨムは、非番の同輩をふたり連れて立っていた。
「隊長の受け売りだがな。仕事に貴賤なし、縫い目に貴賤なし。——この部屋を閉めるってんなら、俺たち近衛の外套の行き場も、一緒に潰えるんでね」
列の中には文もあった。建国祭の再生の三着を纏った家々からの、礼と、存続を願う書き付け。『あの夜の装いは、我が家の誇りです』とあった。
ポレットは、列を三度数えて、洟をすすった。
「十七人です。リディアさま。……査問のときの、十七件と、同じ数です」
偶然だ。けれど、いい偶然だった。
私は列のひとりひとりから繕い物を預かり、札を付け、帳面に書いた。勧告は覆っていない。三日の期限も消えていない。それでも、この帳面の頁だけは、誰にも差し替えさせない。
その晩、ポレットはなかなか帰らなかった。壁の羽目板の前にしゃがんで、歴代の刺繍印を、端から順に指でなぞっていた。
「この部屋がなくなったら、この印、どうなるんですか」
「なくなりません。部屋は、まだ」
「……あたし、ここに来るまで、どこへ行っても『置いてもらってる』だけでした。ここだけです。あたしの部屋でもあります、って言えるの」
私は答える代わりに、預かった繕い物の、三日後の仕上がり札を書いた。三日後の予定をいつもどおりに立てる。それが私にできる、いちばん強がりな返事だった。
*
その夜、渡り廊下の向こう、西離宮の一室に、遅くまで灯りが点いていた。
年配の侍女が、夜更けに文を受け取りに走ったと、あとで聞いた。
私はそれを知らないまま、期限までの針を運んでいた。経糸、一本。また一本。針の音だけが、静かな部屋に鳴っていた。
お読みいただきありがとうございます。
権のひと押しに、針は勝てません。——針だけでは。
次話——期限の朝、西離宮から文が一通届きます。
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