第23話 仕立て札のないドレス
翌朝の客は若い侍女だった。
布包みを胸に抱えて、戸口で二度、後ろを振り返った。誰にも見られたくない使いだと、立ち姿が言っていた。
「お直しを、お願いいたします。……その、内密に」
「どなたの物でも、事情は伺いません。拝見します」
包みを解いて、ポレットが小さく息を呑んだ。
藤色の絹のドレス。袖口のレースが、右だけ裂けていた。引っかけたのではない。擦り切れた末に限界が来た裂け方だった。
そして私はこの藤色を知っていた。衣装室に君臨していた頃、あの方が纏っていた一着だ。
「……ステラ様の、お召し物ですね」
侍女は観念したように頷いた。
「あの方の、袖口です。どうか、お直しを。新しい物は——」
言いかけて口をつぐむ。私は続きを促さなかった。事情は縫い目までだ。
*
侍女が帰ったあと、ポレットは膨れていた。
「直すんですか。あんなに意地悪されたのに」
「直します。針は、着る人を選びません」
「……リディアさまのそういうとこ、あたし、ちょっと悔しいです」
言いながら、ポレットはもう燭台を寄せていた。この子も針の側の人間なのだ。
検分に掛かる。燭台を三つ、ルーペ、それから指先。
絹の目方、染めの沈み、香の残り方。ドレスは、着た人の暮らしを覚えている。この藤色は、着られた回数より、衣桁に掛かっていた日数のほうがずっと多い。晴れ着ばかりの衣装部屋で、出番を待ち続けた匂いがした。
裏を返して私は手を止めた。
襟裏に仕立て札がない。
王宮衣装室で仕立てた物なら、仕立て年と縫い手の名を記した札が縫い込まれる。商会の工房製でも、まともな誂え物なら、店の札が入る。このドレスにはどちらもなかった。札を外した糸の跡だけが、点々と残っている。
「ポレット。ここを見て」
「札がない……ううん、違う。取ってあるんです、これ。あとから」
それだけではなかった。ルーペを胴の脇線に移すと、詰めた跡がある。それも、仮縫いで合わせて詰めたのではない。一度別の寸法で仕上がった物を、後から解いて詰め直した跡だった。肩線の運針は粗く、間隔が走っている。急がされた針。——見覚えのある手だ。建国祭の、あの深紅の目玉衣装と、同じ工房の同じ癖。
つまり、こういうことだった。
このドレスは、新作ではない。誰か別の人のために仕立てられた物を、詰め直して、札を抜いて、あの方の「新作」として納められた物だ。
「新作ばっかり着てる人が、直し物を着せられてたんですか」
ポレットの声から、膨れが抜けていた。
「知らずに、でしょうね。……知っていたら、あの方は、着ません」
繕い屋、と私を呼んだ人が、繕われた物を着せられて、玉座の間に立っていた。笑う気にはなれなかった。虚飾というのは、着ている本人にいちばん冷たい。
あら——まだいたのね。最初の日の、扇の陰の声を覚えている。あの日のあの方は、衣装室の誰より輝いて見えた。あの輝きの裏で、仕立て札は抜かれ、寸法は詰められ、請求書は他人の手に握られていたのだ。
私は断罪の夜に針箱を持って出た。あの方は針箱すら持っていない。
直しに掛かる。裂けた袖口のレースは、同じ物がもう手に入らない。だから、見えない所から借りる。袖の内側の折り返しに、同じレースがひと巾、縫い込まれている。それを慎重に外して表の裂け目へ移す。内側には無地の絹を代わりに入れておく。見えない所から見える所へ、布を移す——直しの基本で、いちばん嘘のない手品だ。
レースの継ぎ目は、模様の花のへりに沿わせて隠す。糸は元より細い撚りを使い、留めは布間に沈める。直しました、と名乗らない直しだ。あの方は袖口を見ても、何が起きたか分からないだろう。それで、いい。
夕刻には袖口は元に戻った。三年は保つように、レースの根元には細かく力を入れておいた。
包みを取りに来た侍女は、袖口を検めて、深々と頭を下げた。
「……お代は」
「銀貨一枚です」
侍女は財布から銀貨を出し、それから、ためらって、小さく言った。
「あの方のお部屋には、男爵家から持参のお召し物は、一着もないのです。何もかも、商会様が調えた物で……その商会様が、先月から、新しいご注文をお断りするようになりました」
用が済んだ駒から、装いを引き上げていく。仕立てた側が、解き始めている。
「今日のことは、どうか」
「伺っていません。袖口の裂けたドレスが一着、直って帰った。それだけです」
*
数日後、西の渡り廊下で、私は藤色とすれ違った。
ステラ様だった。祭りのあと初めて見る姿は、記憶より線が細かった。扇も持たず、供の侍女は一人きり。
向こうも私に気づいて足が止まった。藤色の袖口が、わずかに揺れた。
何か言われるだろう、と思った。まだいたのね、でも、繕い屋、でもいい。ところが、あの方は私から目を逸らして、通り過ぎ、すれ違いざまに、ほとんど聞こえない声で言った。
「……早かったのね」
それだけだった。振り返ったときには、藤色は廊下の角を曲がっていた。
嘲りではなかった。あれはたぶん、袖口の話だ。
*
その晩、ギヨムが非番の顔で戸口に現れた。
「妙な話を拾った。……商会の番頭な、あの黒っぽいの。ここんとこ、宮内府の営繕方に日参してやがる」
「営繕方? 建物の修繕の?」
「おう。商人が糸だの絹だの売り込むなら分かるが、営繕に何の用だって話よ。それも頭のドルバンって官吏と、決まって人けのない刻限だ」
ギヨムは声を落とした。
「あんたらの糸を止めて、次は何を止める気だか。……気をつけな」
ギヨムが帰ったあと、私は針箱の蓋を、いつもより静かに閉めた。
留め金の鳴る音が、妙に長く、部屋に残った。
お読みいただきありがとうございます。
仕立て札のないドレスは、着ている人にいちばん冷たいのです。
次話——商会の次の一手は、糸ではなく、部屋そのものでした。
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