第22話 止まった時計
大礼服の解きは五日目に入っていた。
百年の礼服を解くのは縫うより難しい。祖母のノートの最初の頁に、そう書いてある。『縫った者の順を、逆にたどれ。糸を切るのは、たどれなかったときだけ』
肩から胴、胴から裾へ。歴代の針子が直し継いだ縫い目を、新しい順に、一目ずつ緩めてほどいていく。三十年前の祖母の糸、その下に五十年前の誰かの糸、さらにその下に、もっと古い誰かの糸。地層のようだった。解きながら、私はこの礼服を直してきた人たちの手を、一人ずつ覚えていった。
几帳面な手、大胆な手、豆粒のように目の細かい手。中にひとつ、玉結びを布間に沈める癖の手があって、思わず笑った。衣装室の作法は、百年前から変わっていないらしい。
たどれない糸は日に幾本か出る。切るしかない糸は切って、捨てずに小箱へ入れた。もう布には戻れない、百年の絹糸だ。何に使うとも決めていないのに、捨てる気になれなかった。
「リディアさま、洗いの盥、三度目のお湯です」
「ありがとう。胴の染みは、今夜は水に浸けたままにします」
焼け焦げに触れない部分から、順に洗う。急げば布が死ぬ。工程は帳面のとおり、遅れも進みもなく進んでいた。
*
局長が来たのは、ポレットが寮に帰ったあとの、遅い時刻だった。
「夜分にすまん。……台帳の続きだ。座っていいか」
断る理由はない。私は茶を淹れた。夜のお直し部屋で局長に茶を出すのは、いつからか、当たり前のことになっている。
局長は茶を一口飲んで、湯呑みを書き付けの角に、きちんと揃えて置いた。物の角と角が揃わないと、この人の話は始まらないのだ。
「商会の受注は、火事の翌年だけではなかった。以来三十年、宮の新調は右肩上がりだ。それから——」
局長は書き付けの束をめくった。
「宮の外も調べた。商会に掛かりの深い家を、貸しの側から洗っている。式典のたびに新調を重ねて、商会の掛け売りに呑まれた家が、両手で足りん」
めくる手が、一枚のところで、止まった。
ほんの一拍だった。局長はそのまま頁を繰って話を続けた。けれど私は、針を持つ人の手元を見る癖が抜けない。今の一拍は、目が数字に引っかかった止まり方ではなかった。
「……局長。今の頁に、何が」
局長は答えなかった。代わりに、外套の内から、あの懐中時計を出した。
机の上に置く。銀無垢の、古い時計。蓋の縁は擦れて鈍く光り、提げ紐の組紐は、擦り切れて芯が覗いている。初めて査問で会った日、この人の机の上にあった、直しかけの時計。
「グレイル、という名が、あの列にある」
低い声だった。
「私の家だ。西の山側の、羊毛と石ころの領でな。……祖父の代までは、堅実だけが取り柄の家だった」
先王の在位二十五年の大礼——三十年前のあの大礼の頃から、宮の式典は華やぎ続けた。地方の子爵家にも、格式に応じた装いが求められた。新調に次ぐ新調。商会はいくらでも掛け売りに応じた。
「父は、断れない人だった。家の格を守るためだと言って、装いを整え、祝いを贈り、気づいたときには、掛けの利子が領の実りを越えていた。……領の半分を売って、それでも足りなかった」
時計の蓋を局長は親指で撫でた。
「家財を手放す日、父は競りの目録から、これ一つだけを抜いた。売れば金貨数枚にはなったはずだ。母の形見でもない、ただの時計だ。なぜこれだけ残したのか、私は訊かなかった。——訊けないまま、十年前に父は死んで、時計はその朝から止まっている」
局長は蓋の縁を指でなぞった。
「父は、几帳面な人ではなかった。刻限にも、金にも緩かった。緩いから、呑まれた。……その父が、時を計る道具だけを、最後まで手放さなかった。理由を、私はずっと考えている」
答えの出ない問いを、この人は十年、この銀の蓋の裏に仕舞ってきたのだ。
油が切れているだけだ、と局長は言った。城下の時計師に出せば、半月で動く。
「直せる者を、探していないだけだと、そなたに言ったな。あれは嘘ではないが、正確でもない」
局長は時計から目を上げずに続けた。
「直ってしまえば、それで終わる気がしていた。止まった針を眺めている間は、まだ父に、訊きそびれた問いが残っている気がしてな。……吝嗇卿の正体は、この程度のものだ」
私は何も言わなかった。慰めの言葉は、この人には要らない。
代わりに、立ち上がって、部屋の隅の衣桁から、あのドレスを持ってきた。
断罪の夜に着ていた、若草色のドレス。袖口に、細かい直しの痕。みすぼらしい縫い目と、玉座の間で嘲笑された、あの縫い目。
「祖母の形見です。祖母が母のために直し、母から私に回ってきました。……あの夜、私が泣かずに済んだのは、これを着ていたからです」
「捨てなかったのだな。あの夜のドレスを」
「捨てられませんでした。針箱と、このドレスだけ持って、王宮へ来ました」
局長は初めて時計から目を上げて、ドレスの袖口を見た。それから、ほんの少しだけ、目元を緩めた。笑ったのだと分かるまでに、一呼吸かかるような、小さな変化だった。
「……似た者だな、我々は」
「はい。捨てられない性分同士です」
夜が更けて、局長は時計を外套の内に戻し、書き付けを揃えて立ち上がった。戸口で一度だけ振り返る。
「商会を調べるのは、私怨ではない。それだけは言っておく」
「存じています。局長は、数字の合わないことがお嫌いなだけです」
「……そうだ。そういうことにしておけ」
外套を羽織る背中に、私は言いそびれた言葉をひとつ、呑み込んだ。提げ紐が擦り切れています、直せます——それを言うのは、今夜ではない気がしたのだ。
足音が遠ざかったあと、私は茶器を片づけて、水に浸けた礼服の様子を見た。
古い染みが、ゆっくり水に溶け出していた。三十年、誰にも洗われなかった布が、今夜は水の中で息をしている。
布から立つ細かな泡の音だけが、しばらく部屋に鳴っていた。
お読みいただきありがとうございます。
止まった時計にも、止めておく理由があるのです。
次話——翌朝、お直し部屋に思いがけない客。「あの方の、袖口です」
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