第21話 帳面の縫い目
翌日の夜、局長は本当に台帳を抱えてきた。
革綴じの大きな帳面が、三冊。裁ち台の上に置かれると、埃と古い革の匂いがした。
「宮内府の納入台帳だ。年に一冊。——火事の前の年、火事の年、その翌年」
マダムが燭台を寄せ、ポレットが裁ち台の布を退ける。ゴットフリートは戸口の脇に腰を下ろして、灯りの芯を切る鋏を手にしていた。
夜のお直し部屋が、そのまま帳面の検分室になった。
裁ち台の上から、直しかけの肩掛けをどける。針の代わりに帳面が並ぶのは、この部屋が始まって以来のことだろう。ポレットが人数ぶんの茶を淹れて、緊張した顔で隅に座った。
「先に、数字を言っておく」
局長は真ん中の一冊を開いた。
「火事の前の年、商会が納めた礼服の新調は二着。金貨百四十枚。——火事の翌年は、焼けた八着の一斉新調に、祭りの礼装が重なって、九百枚を超えている」
「……六倍、ですか」
「六倍余だ。むろん、これだけでは何も言えん。焼けたから新調した。帳面の上では、筋が通っている」
通っているからこそ、嫌な数字だった。八着の礼服が灰になって、いちばん潤ったのは、灰の始末を嘆いてみせた店なのだ。
「焼けた品の目録はないんですか? 何が焼けたか、書いた紙」
ポレットが訊いた。いい問いだった。局長は短く息を吐いた。
「焼失品目録。正本は——紛失扱いだ。『災害につき』とある。火事の記録が、火事を理由に失われている」
「そんなの、変です」
「変だ。だが三十年前の話だ。書庫番を責めても、出てこない物は出てこない」
残っているのは写しが一部。それも品目の細目はほとんど略され、『礼服八領』とまとめられているだけだという。
記録は、万能ではない。消す側に回った者がいれば、なおのこと。
私は、開かれた台帳をしばらく黙って見ていた。
数字の列は私には読み解けない。それは局長の畑だ。けれど帳面そのものは——紙と、革と、糸でできている。
「局長。この帳面、お借りしても」
「構わんが、そなたに数字が読めるのか」
「数字は読めません。——綴じを、読みます」
私は台帳を燭台の下へ運び、ルーペを取った。
帳面というのは綴じてある。折り丁を重ね、麻糸で背をかがって、革で包む。つまり帳面にも、縫い目があるのだ。
縫い目は筆跡。紙の上の字が誰かの手であるように、背をかがった糸も、誰かの手だ。
火事の年の一冊。背のかがりを端から目で追う。年を経た麻糸は飴色に焼けて、目の間隔にはかがった職人の癖が出ている。少し強めに引いて、三目ごとにわずかに詰まる。前の年の一冊も、翌年の一冊も、同じ癖だった。同じ工房の、おそらく同じ手。
読むのは目だけ。指では触れない。三十年物の麻糸は乾いて脆く、触って崩せば証拠ごと殺してしまう。燭台の灯りを斜めから当てて、糸の照りの違いを探していく。
——春の折り丁のところで癖が途切れた。
「……ここだけ、糸が新しい」
飴色の並びの中に、そこだけ白茶けた麻糸が通っている。目の運びも違う。強く引かず、間隔も揃いすぎている。丁寧だが、別の手だ。
ルーペを寄せると、綴じ穴が見えた。針の穴が、二重になっている。
「穴が、二度開いています。一度解いて、頁を替えて、綴じ直した痕です。……上手な手ですが、初めの職人の癖までは、真似ていません」
部屋が、静かになった。
局長が身を屈め、私の手からルーペを受け取って、長いこと綴じ目を見ていた。
「……春の丁か」
「はい。火事のあった、春の頁です」
どの頁が抜かれ、何に差し替えられたのか、それはもう分からない。今そこに綴じられている頁は、辻褄の合った数字を静かに並べているだけだ。
けれど、確かなことが一つある。三十年前、この帳面を解いて綴じ直した誰かがいる。帳面は嘘をつける。ただし、糸に嘘は縫えない。
「帳面の中身は替えられても、綴じ替えた痕までは消せなかったわけね」
マダムが低く言った。ゴットフリートが、戸口の脇で初めて口を開いた。
「……庫の控えを、持ってこよう」
老人が抱えてきたのは、彼が三十年書き継いできた、庫側の納入記録の控えだった。表の台帳が資材方の管轄なら、こちらは庫番の私記。誰も検めない代わりに、誰も差し替えられない。
火事の前日の頁にその一行はあった。
『商会より荷三箱、東翼へ。宛先違いにつき、翌朝引き取りの由』
「誤配の荷、ですか」
「東翼に、商会の荷が入る謂れはない。……翌朝には、東翼ごと焼けた」
誰もしばらく何も言わなかった。荷が何だったのかは書いていない。引き取られたのかどうかも、もう確かめようがない。ただ、火の前夜に、火元となった翼に、あの商会の荷が置かれていた。
「……その夜のことを、覚えておいでですか」
「忘れた夜のほうが、少ない」
ゴットフリートは、灯りの芯を切りながら言った。
「翌る朝、わしは灰の中から、焼け残りの錠前を拾うた。……錠は、開いておった。掛けたのは、わしだ。この手でな」
三十年、この人はそれを言える相手を持たなかったのだ。管理簿の外で荷の出入りを書き留め、封印の外で共裂を守り、灰の中の錠前を覚えている。庫番の仕事だ、と本人なら言うのだろう。
「もう一つ」
局長が、焼失品目録の写しを広げた。略された品目の列の中に、一件だけ、細目の残った行があるという。
『先王妃様第二礼服。七宝の釦、十二粒』
「釦だけ、細目が残った理由は分からん。写した書き手の気まぐれだろう。——だが、覚えておけ。細目が残っているのは、これだけだ」
七宝の釦、十二粒。私は口の中で繰り返して、帳面の綴じ目に目を戻した。
台帳から名を消して回った手。頁を差し替えて綴じ直した手。
「局長。……三十年前、祖母の名を台帳から塗り消した誰かがいた、と申し上げました」
「聞いた」
「名を消した手と、頁を替えた手。——同じ手だと、私は思います」
局長は写しを畳み、台帳の角を指一本で、とん、と揃えた。
「立証はまだ遠い。だが、糸口は糸の側から出た。……そなたの畑だな、これは」
その夜、私たちは帳面を布で包んで、鍵のかかる棚に納めた。
布を畳む音が、いつもより少しだけ、重たく鳴った。
お読みいただきありがとうございます。
帳面にも、縫い目はあるのです。
次話——夜の茶の席で、止まった懐中時計の、止まったままの理由を初めて聞きます。
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