第20話 王命は来た、糸は来ない
沙汰の書状は朝いちばんに来た。
宮内府の印。開くと、太い楷書で、こうあった。
『先王妃様大礼服修復の儀、王宮衣装室お直し部屋に仰せ付けらる。期限、大礼前日まで。差配、宮内府式典局長』
お直し部屋に、である。衣装室に、ではなく。
初めて王宮に上がった日、ここは「誰も来ない部屋」と言われた。それから、指名のない指名が来るようになって、名前の出ない功がいくつか積み上がって——今、王命が、この狭い部屋の名を呼んだ。
ポレットは書状を、読めないくせに三回眺めて、それから洟をすすった。
「『部屋』って、書いてあるんですよね。ここの」
「ええ。あなたの部屋でもあります」
「あたし、今日、字を二つ覚えます」
書状の噂は昼を待たずに衣装室を巡った。廊下ですれ違う針子たちの目が、また少し変わった。畏れと、好奇と——それから、ほんの少しの誇らしさ。うちの衣装室の話だ、という顔だった。
*
昼前に局長が来た。
書き付けの束を裁ち台に置き、角を指一本で、とん、と揃える。
「期限は大礼の前日。数えて、九十日だ。長いと思うか」
「……解きと洗いに十日。織り継ぎに六十日。仕立て直しと、緞刺しの起こしに二十日。——遊びが、一日もありません」
「人手は」
「夜はマダムが。昼はポレットとふたりで。……広間から昼の手をふたりお借りできれば、解きが三日縮みます」
「借りろ。書き付けは私が回す」
局長は頷いて、それから、なんでもないことのように言った。
「入り用は、すべて書き出せ。糸も、布も、人手も——蝋燭もだ。今度は、削らん」
私は思わず、顔を上げてしまった。
『冷徹の吝嗇卿』が、削らないと言った。蝋燭の一本まで帳面に載せる人が、である。
「……局長。お加減でも」
「削るのは、無駄だけだ」
局長は眉一つ動かさなかった。
「これは、無駄ではない。——それに」
少しだけ、間があった。
「値はそなたが付けろ。あの請求書の値付けを、私は信用している」
安すぎる、と査問で叱られた日の請求書のことを、この人はまだ覚えている。私は頭を下げて、その日のうちに、材料の注文書を三軒の問屋へ走らせた。
*
三日後、断り状が三通、揃って戻ってきた。
『御注文の品、あいにく品切れにつき、入荷の目処立たず』
『同じく、品切れにて』
『同じく』
文面まで揃っていた。
金糸だけではない。先染めの平絹も、裏絹も、張り芯までも品切れだという。王都で、絹が三軒同時に払底することなど、ありはしない。あるとすれば、それは払底ではなく——栓だ。誰かが、川上で栓をした。
ポレットは三通目の断り状を、破りそうな持ち方で睨んでいた。
「糸屋さんが、糸がないって……そんな嘘、あります?」
「嘘と分かる嘘は、脅しなのです。嘘の下手さで、脅しの本気が知れます」
城下の様子はギヨムが調べてきてくれた。非番の日に、妹の伝手で、古着市から糸屋まで当たって回ったという。
「どこも同じだ。城のお直し向けには売れねえ——いや、そうは言わねえんだな、これが。ただ『品がねえ』の一点張りでよ。倉に反物を積んどきながら、品がねえと来た」
ギヨムは外套の埃を払って吐き捨てた。
「商会の名前は、誰も出さねえ。——出さねえのが、答えだろ」
バルトルド。
お手並み拝見、の意味が、これだった。針を折るのではない。糸を、来なくする。
お直し部屋を潰すのに、火も刃も要らない。材料の来ない工房は、腕があるほど早く死ぬ。あの男はそれを、三十年かけて骨身で知っている側の人間だ。
*
その夜、お直し部屋に、いつもの顔が集まった。
マダムが燭台を増やす。ポレットが糸を巻く。そして、ゴットフリートが黙って現れて、裁ち台に置いた。油紙の包みを二つ——庫の奥の、廃番の金糸。使う手が来るまで置いておくのが庫番の仕事だと言った、あの包みの残りのすべて。
それから、もう一つ。桐の小箱だった。
「……共の裂だ」
蓋を開けると、深い紫紺の絹が、一巻き。礼服と同じ織。焼けていない、生きた織だった。
「伝来の御衣装には、直しの控えに、共裂が添えて伝わる。棚の封は、御衣装ひと領ぶん。……裂は、わしが預かっておった」
三十年。封印の外で、この人はこれを守っていたのだ。沙汰があれば返すつもりで、沙汰がなければ墓まで持っていくつもりで。
「ゴットフリートさん、それ……」
ポレットが、声を詰まらせた。老人は何も言わずに箱をこちらへ押した。
「……足りますか」
マダムが低く訊いた。私は共裂の織り目を灯りに透かした。
「織り継ぎの経は、ここから抜けます。継ぎ糸は、生まれ年の同じ絹から抜くのが、いちばん馴染む。……金糸は、廃番の包みで当座は足ります。足りないのは、起こしの金糸と裏絹——それは、まだ先の工程です」
糸が来ないなら、ある糸で始める。解ける物から解いて、読める物から読む。
「糸が来るのを待つのは、針子の仕事ではありません」
私は針箱を開けた。
「——ある糸で、始めます」
「結構」
戸口で声がした。局長だった。断り状の三通を、ひらりと指で挟んで持ち上げる。
「商いというのは、糸を締めれば、金が動く。動いた金は、必ずどこかの帳面に残る」
局長は断り状を畳み、外套の内に納めた。
「向こうがその気なら、こちらは金の側から調べるまでだ。……三十年前の、納入台帳を引く」
三十年前。火事の年の、台帳。
名を消して回った誰かが、消し忘れた物が、そこにあるかもしれなかった。
燭台の輪の中で、ポレットが糸を巻き、マダムが針を運び、ゴットフリートが芯を整え、私は焼けた織の見取り図を引いた。
帳面をめくる音と、針の音が、同じ部屋で鳴っていた。
お読みいただきありがとうございます。
糸は止められました。針は、止まっていません。
次話——三十年前の納入台帳に、おかしな数字が並んでいます。
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