第18話 あの礼服を、直せますか
封印棚が開いたのは、それから三日後の朝だった。
前の晩、私はよく眠れなかった。祖母が火の中から抱えて出た一着に、祖母の孫が針を入れるかもしれない。そう思うと、指先が勝手に糸の始末を始めてしまって、何度も手を握って止めた。
朝の物品庫は掃き清められていた。ゴットフリートが夜のうちに床を拭き、燭台を増やし、埃の一粒まで払ったのだと分かる清め方だった。ポレットは庫の外で、湯と手拭いを抱えて控えている。中に入れる身分ではないけれど、一番近くで待つ気なのだった。
庫の奥に人が並んだ。
王太后様の御渡り。宮内府の役人がふたり。アルヴィン局長。マダム・ジョゼット。そして私。庫の主のゴットフリートが、一番奥で鍵の束を持って立っていた。
王太后様が庫までお運びになるなど、本来はありえない。ありえないことを黙って通すだけの何かが、今朝の王宮には流れていた。
役人が、棚の縄と封印紙を検めた。宮内府の古い印。三十年前の日付。
「封、確かに」
縄が解かれる。ゴットフリートが鍵の束から、迷いなく一本を選び出した。
三十年、誰も使わなかったはずの鍵は——油が差され、蜜蝋で磨かれていた。錠は音もなく回った。
「……長うございました」
老人の声はそれだけだった。
観音開きの扉が開く。白い布。役人が目録を読み上げた。
「『先王妃様、大礼服、一領。三十年前の火災により焼損。修復不能につき、封印』——以上にございます」
「その、『修復不能』の一行を」
王太后様が、静かに言われた。
「今日、検め直します」
白布に手が掛けられた。
布の下から、それは現れた。
深い紫紺の絹。百年の艶を持つ、重い織。肩から胸へはまだ形が生きている。けれど裾から胴へかけて、焦げが這い上がっていた。煤の黒。水染みの輪。熱で縮れて、波打った織。
それでも——裾に残った金糸の緞刺しの花は、燭台の灯りを受けて、まだ静かに光った。
銀鼠の花と、同じ意匠。本歌の花だった。
「検分を、お許しいただけますか」
指先を清めて私は布に触れた。
焼けた織は、指の腹に、乾いた砂のような感触を返す。経糸——縦に走る糸が焼け切れて、緯糸だけが浮いている場所。熱で脆くなって、強く触れれば粉になりそうな場所。ルーペを寄せると、緞刺しの金糸は、表の箔こそ曇っても、芯の糸が生きているのが見えた。
金は、火に強い。祖母の声が、また一つ、帰ってくる。
裾を回りながら、花を数えた。御旗の花は、裾にぐるりと十二輪。うち四輪が、焦げに呑まれている。焼け切れた経は裾回りに集中して、胴の水染みは、洗いと当てで抜ける見込みがある。見取りを頭の中に引きながら、私は最後に、裏襟を、そっと返した。
銀糸の、小さな指貫の刺繍。
白布の隙間から覗いていた、あの印。あのときは、ただの符合だった。今は、署名だと知っている。この一着を最後に手入れした針子の——祖母の、署名だった。
指が、一瞬だけ止まった。止まった指を仕事に戻した。
「どうだ」
局長が、単刀直入に訊いた。
「直せるか」
私はすぐには答えられなかった。答えられないことを答えるしかなかった。
「……焼けた織は、元には戻りません。戻ったように見せる直しなら、ございます。上から布を伏せて、飾りで隠して。——けれどこの御衣装にそれをするのは、嘘を縫い込むのと同じです」
顔を上げて王太后様を見た。
「今の私には、『直せます』とは申し上げられません。……調べる時間を、いただけますか」
庫が、静まった。
広間なら、ここで空気が落ちただろう。お直し係が、王太后様の御前で、直せると言えなかったのだから。
けれど王太后様は頷かれた。
「三十年」
と、静かに言われた。
「この棚の前で、『調べさせてください』と言った者は、あなたが初めてです。皆、布を見る前に『恐れながら』と言いました」
「調べなさい。時間は、やりましょう」
*
そのときだった。庫の入り口から、香のにおいが、先に届いた。
「これはこれは——王太后様におかれましては、ご機嫌うるわしく」
恰幅のいい男が、仕立てのいい外套の裾を払って、深々と腰を折った。低い、艶のある声だった。小脇に革表紙の見本帳を抱えている。後ろに控えた番頭の顔には、見覚えがあった。目玉の御衣装の仮縫いの日、揉み手で控えていた男だ。
「御用商、バルトルドめにございます。御渡りと伺いまして、ご機嫌伺いに罷り越しました」
誰も呼んでいない——とは、誰も言わなかった。
役人たちの目礼の深さで分かった。この宮で、それが言えないだけの力を持った男なのだ。
バルトルドの目が、開いた棚と、焼けた礼服の上を、すっと撫でた。
「……おお。これは、三十年前の。痛ましいことで」
声だけが、痛ましげだった。
「王太后様。差し出がましいことながら、申し上げます。古物の修繕など——王家の恥に、ございます」
男は揺るがぬ商いの笑みのままで続けた。
「大礼には、手前どもが総力を挙げ、新調の誉れをご用意いたしますれば。三十年前の大礼も、手前どもの先代が、新調にてお飾りいたしました。王家の御為、今度の大礼も、ぜひ」
「三十年前」
王太后様の声は高くならなかった。
「私は、新調の礼服で大礼に出ました。……あれを誉れと思ったことは、一度もありません」
バルトルドの笑みは崩れなかった。
崩れない、ということが、かえって私には分かった。この男は断られることに慣れていない。断られても、値切られても、最後には必ず自分の布が通る——そういう三十年を、生きてきた顔だった。
「これは手厳しい。……時に、式典局長様」
男は矛先をするりと変えた。
「殿下方には、永年のお引き立てを賜っております。セドリック殿下の御代になりましても、手前ども、変わらず王家の御為に——」
「話が逸れている」
局長の声は低いままだった。
「それに、費えは私の職分だ。商人が値を口にする場ではない。下がれ」
バルトルドは恭しく引いた。引き際まで、仕立てが良かった。
「では、手前どもはこれにて。——お手並み、拝見いたしましょう」
去り際、私は見ていた。
商人の目は値踏みの目のはずだ。生地を見れば反を数え、金糸を見れば匁を数える。私はそういう目を市でいくつも見てきた。
けれどあの男が礼服に向けた目は、値を付ける目ではなかった。
——早く、視界から消してしまいたい物を見る、目だった。
番頭が最後に一度だけ、封印棚の位置を確かめるように振り返って、主のあとを追っていった。
調べる時間はいただいた。針はそれからだ。
私は白布を礼服にそっと掛け直した。布の落ちる、微かな音が庫に鳴った。
お読みいただきありがとうございます。
「修復不能」の一行を、検め直すところから始まります。
次話——焼けた織を継ぐ糸口は、意外な人の手の中に。
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