第17話 名を消された針子
「長い話になります」
王太后様が目配せをされると、茶が替えられ、人は払われた。年配の侍女が一人だけ、扉の内に残った。
「私がこの宮に輿入れしたとき、支度の針子として付いてきたのが、エディスでした。私は嫁いだばかり、あの子は二十五。……勝手の分からない宮で、私が最初に覚えた味方の顔です」
祖母が、輿入れの針子。
知らない祖母が、一人ずつ増えていく。私は膝の上で手を重ねてただ聞いた。
「支度のあいだ、私は心細くて、泣いてばかりいました。あの子はある晩、私の婚礼の衣装の袖を裏返して、内側にひと針、私の生家の庭の花を刺したのです。『表からは、見えません。けれど袖を通すたび、御自分だけは、ご存じです』と」
王太后様はそこで少しだけ黙られた。
「生意気な針子でしょう。……あれで、ずいぶん助けられました」
見えないところに、ひと針。祖母は私の肌着の裾にも、名前の頭文字の代わりに小さな花を刺してくれた。売り物ではないものにだけ、あの人は花を刺した。
「十年で筆頭になりました。誰も文句は言わなかった。——言えなかった、が正しいでしょう。腕が、違いすぎたので」
王太后様は茶に口をつけずに続けられた。
「この宮には、伝来の大礼服があります。……ありました。先々代の妃から百年余り、大礼のたびに王妃が纏い、そのたびに針子が手を入れて、受け継いできた一着です。裾に、金糸の緞刺しの花。——建国の御旗の花です」
銀鼠の裾と、同じ花。
写しでございます——仕立てたとき、祖母はそう言ったのだという。写しがあるなら、本歌がある。それが、封印棚の白い布の下の——
「三十年前の春。先王の在位二十五年の大礼を控えて、衣装室は夜業続きでした。東翼の衣装庫が焼けたのは、その最中です」
王太后様の声は変わらなかった。変わらないままで低くなった。
「礼服が八着、灰になりました。大礼服だけが、残った。——エディスが、火の中から抱えて出たのです。髪を焦がし、右手の甲を焼いて」
右手の甲。
祖母の右手の甲には、引き攣れた古い傷があった。竈で焼いた、と言っていた。子供の私はそれを信じて、それ以上は聞かなかった。竈の火傷にしては、大きすぎる傷だったのに。
「沙汰は、夜業の燭台の失火。筆頭針子の監督の責、と決まりました」
「あの子は、弁明をひとつもしませんでした。退宮を願い出て、許されて——罪科は不問、ただし退宮。……罪人ではないと、沙汰の書き付けには書いてあるのです。けれど宮の誰もが、罪人として送り出した。曖昧に葬るのが一番残酷だと知っている者の、裁き方です」
私は、口を開きかけて、やめた。
王太后様が、まだ終わっていない顔をしておられたからだ。
「言っておきます。私は、あの子が火を出したとは思っていません。——今も」
初めて声に熱が差した。
「エディスは、縫い終わるたびに燭台の芯を切る子でした。灯りの下に布を置いたまま席を立ったことは、一度もない。針を置くときは、まず火。それから糸。三十年、隣で見てきた私が言うのです。間違いありません」
針を置くときは、まず灯り。
祖母は私にも同じことをさせた。布と火を同じ視界に置いたまま眠ってはいけない。町の小さな家で、あの人は最後まで、王宮の針子の火の始末をしていた。
「……祖母も」
声が、少し掠れた。
「祖母も、同じことを申しておりました。針より先に、火を置きなさいと」
王太后様は目を閉じられた。長い年月を、一息で遡るような閉じ方だった。
「沙汰のあとで、おかしなことが起きました」
目を開けて王太后様は続けられた。
「衣装室の台帳から、エディスの名が消えていったのです。塗られ、切り取られ、仕立て札が抜かれ。……沙汰は、名を消せとまでは命じていません。誰かが——あとから、消して回った」
「壁の刺繍印だけが、残りました。刺繍は、紙より消しにくいので」
誰が。何のために。
問いは喉まで出て形にならなかった。王太后様もそれきり口を閉ざされた。三十年、答えの出ていない問いなのだと、分かる沈黙だった。
*
やがて、王太后様は袂から、小さな布を出された。
麻の手巾だった。よく晒された白。縁かがりの糸はところどころ擦り切れて、隅には銀糸で、小さな指貫がひと針。
「輿入れの年に、あの子が縫ったものです。四十年、使いました」
卓の上にそっと広げられる。掛かりが三か所、切れていた。隅の刺しも一輪ほつれて浮いている。四十年ぶんの、洗いと日の色がしみていた。
「……直せますか」
焼けた礼服ではなく、まず手巾。
この方は頼む順序を知っておられる。針子の腕ではなく、まず心根を検める順序を。
「一晩、いただけますか」
私はそう答えていた。
*
その夜、お直し部屋の燭台の下で、手巾を広げた。
ポレットが覗き込んで声をひそめる。
「ちっちゃい指貫……。あ、壁の印と、おんなじ」
「祖母の刺したものだそうです」
「えっ」
ポレットの目が真ん丸になった。
「リディアさまのおばあさまって、王宮の針子さまだったんですか!?」
「私も、昨日知りました」
糸を巻きながら、ポレットは神妙な顔で私の手元を見ていた。
「……どんな方だったんですか」
「厳しい人でした。針を持つときだけ。それ以外は、よく笑う人で」
「あたしの縫い目も、いつか、誰かが覚えててくれるでしょうか」
「覚えます。縫い目は筆跡ですから。——少なくとも私は、あなたの右下がりの並縫いを、もう見分けられます」
「な、直します、それ」
古い糸は、抜かない。
切れた掛かりの際に新しい麻糸を寝かせ、古い糸目の呼吸に合わせて、継いでいく。ほつれた指貫の一輪は、残った銀糸の癖を指で読んで、同じ寝かせ方で留め直す。
四十年前の祖母の針目は、今の私が知る祖母より、少し大きかった。速くて、迷いがなくて、少し大きい。若い針目だ。
祖母の縫い目の隣に私の針目が並ぶ。
形見を直したことは何度もある。けれど「隣に並べている」と思ったのは、初めてだった。
*
翌朝、西離宮に納めた。
王太后様は手巾を受け取り、窓の光に透かし、縁を指でゆっくりとたどられた。検分の手つきではなかった。長い長い文を読み返す、あの手つきだった。
「……手が、似ている」
それから、ほんの少し、笑われた。
「けれど、同じではありませんね。あなたの針は、あなたのものです」
深く、頭を下げた。祖母が褒められたのか、私が褒められたのか、分からなかった。たぶん、両方だった。
王太后様は手巾を丁寧に畳み、袂に納められた。
「これで、残りの年月も足りましょう」
なんでもないことのように仰ったその一言が、いちばん、胸に刺さった。
「リディア・アシュフォード」
名を呼ばれて顔を上げる。王太后様は窓の外——本宮の方角を見ておられた。
「もう一つ、頼みがあります」
「衣装室の、いちばん奥。縄を掛けて、封じた棚があるでしょう」
封印棚。白い布。焼け焦げた、金糸の織——
「あれを、開けます」
握りしめた針箱の中で、糸巻きが、ことりと小さく鳴った。
お読みいただきありがとうございます。
四十年前の手巾は、直りました。三十年前の礼服は、まだです。
次話——封印棚が、三十年ぶりに開きます。
続きが気になりましたら、ブックマーク・評価で応援いただけると励みになります。




